2021年5月27日木曜日

思い立ち書き綴ってみました

 先日、木村無相師についての動画を父と共に撮影しながら思ったことがあるので、

少しそれについて書いていこうかと思います。


木村無相師という方は父にとって念佛の道を決定づけた方ですが、木村無相師を

私自身があまり考えたことはありませんでした。勿論、木村無相師の事は

私が小学生の頃には名前くらいは知っておりました(自宅に来られたこともあったようですが覚えておりません)し、無相師に関しての事も少しは知ってはいたのですが、

今回は何故か、こういう事をご縁と言うのでしょうが、不意に木村無相師をもう少し知りたくなり父の『木村無相 お念佛の便り』とは別に、岩崎成章さんの『無相法信集』から改めて木村無相師に迫ることにいたしました。その『無相法信集』4頁に


「ただ念仏してミダに助けられまいらすべし」を一直線に歩ませて頂きます。”たとえ多くの人が、それを真宗でないと言おうとも”とこうした断言は彼との親交の十五年間ではじめて聞いた「声」でした。



 と無相師より岩崎さん宛て手紙にあります。 この内容は『木村無相 お念佛の便り』70頁にもありますが、父の並々ならぬ覚悟、うろうろしていたであろう父に”道”がついたと思われる瞬間を木村師は喜ばれたのでしょう。その前提は父が


『世上、真宗の先生といわれる方が沢山あり、一体どの人のいわれる事が本当なのかとまどうことがあります』(『木村無相 お念佛の便り』6頁)


 と、多くの先生方の多種多様の説き方に戸惑い深く悩んでいた父の姿を感じ取っておられたに違いありません。この当時(昭和50年代)頃の大谷大学にはいわゆる碩学がキラ星の如く在籍しておられたのですが、それ故に聞く者にとっては、どの先生に師事すべきか非常に悩ましい問題であったのかもしれません。

 今に思うと贅沢な悩みかもしれませんが、当時の父は必死であったのでしょう。直接は聞いたことはありませんが、この文面からすると悩みというよりも闇の中で藻搔いている様子が伺えます。

 この経験は私もあるのですが、もしかすると真宗のみ教えをご聴聞される多くの方にとってこの問題はあるのではないでしょうか。木村無相師の同じ悩みをもっておられたはずです。

 

 動画にもありますが、木村無相師ご自身も真言と真宗を行ったり来たり繰り返された経験があります。これは「真言ではこのように言う」や「真宗ではこのようにいただく」と、どちらも嘘で無くとも”その通り”いただくことに非常に悩まれたのではなかろかと、そう思われます。

 

 また、先に私自身も経験があると申しましたが、経験の方向は全く逆のでお念佛が先にあったという事によって苦しんだ経験があります。私が中学生の頃になると父が「尚存、お念佛じゃぞ」と聞くことがありました。そういうこともありお念佛、ただ念佛、という事が心に刻まれていくわけですが、大谷大学に入るとそれが一変します。

 私が大谷大学に在籍した頃(だったと思いますが)は、本山の外壁に「今、いのちがあなたを生きている」というスローガン掲げられていました。後に一部で「いのち教団」と揶揄されていますが、学内でも「いのち」や「生かされている」という言葉が頻りに聞こえてきました。「阿弥陀のいのちにいかされている」、初めて聞いた時は良くわからない言葉ながらも妙な感動がありました。「真宗を学ぶという事はこのような事に触れていくことか」と、方向性が定まったというか、感動的な言葉に出会うことが学びなのだと思っておりました。事実「慙愧する」「うなずく」・・・等々。

 枚挙に暇はありませんが、兎に角、それまでの人生で出会ったことのない言葉に酔ったような状態でした。これこそが真宗だと。そして、それが深まるにつれて父の言っていた「ただ念佛」「ナンマンダブツ」が古臭いものだと感じるようになりつつも、何故このように味わいが違うのかという疑問も生じてきました。このあたりが迷いの始まりです。結果的には、お念佛の信心に還ってくるわけですが、それぞれの先生方のそれぞれの言い分が戸惑いの因になりうるのだと知らされました。「この先生がこのように仰った」というような事を根拠にするのではなく、弥陀の本願が私の助かる”根拠”であると聞く。先生を根拠とするのではなく、阿弥陀仏の本願を根拠とする。そこになかなか辿り着けませんでした。また、根拠という事について思う事は『無相法信集』40頁にも


さて、北海道から来た講師さんがお話の時に、お念仏くらい申していてもあかんと再三仰っていたとのこと


 とあります。無相師は「くらい」についての所感を述べられておりますが、私の思うところは、木村師のお手紙当時に、あるご高名な先生が仰った事として、あるお同行が「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念佛を申していたら、先生が「やかましい!」と仰った事があったようです。ご高名の先生ご自身は「念佛申す」ことに対して思う事があったに違いないのですが、それを真似する講師が出てきたという事がありました。詳細は申しませんが、ある教区から出された出版物にもあります。

 高名という云わば権威者を根拠としてそれを自分の言葉とする事が増えてきたのですが、それに関連して同じく『無相法信集』63頁に


今の先生方は自分の凡夫の「自覚」ばかりやかましく言っていないで、おおもとの如来法蔵さまの大自覚を自覚させていただくことが大切でないかとおもうことです。


 と無相師が述べられております。「自覚」「機の自覚」というとまたご高名な先生を思い浮かべるわけですが、またその先生が仰った事を根拠とし、お話をする方がいるわけです。

「機の自覚」という事を悪く言っているわけではありません。無相師の仰る如来法蔵さまの大自覚は二種深信に他なりませんから。しかし、無相師の指摘は「自覚」と言っても

自分自身が「私は悪人と思っております」というような自分の方を自分で見ているというところを指しているわけです。無相師は、自分で思うような事は何の頼りにもならんと。

だから如来法蔵様のお手元をみよと。厳しい指摘の背景にはこのような状況にある教団を憂いてのことであったのだと思われます。


 最後になりますが、最近、ご縁のお方がある座談会で「真宗は問題を持ち続けるものであり、答えを得てはいけない」という趣旨の指摘をされたという相談がありました。

私自身も「問を持ち続けるのが真宗」という旨の話を聞かされたことがあります。これに関しては疑問を呈せざるを得ないものがあります。

 確かに自己自身を問うという事はご聴聞するにあたって大事でありますが、思うに自己自身の問いを解決するのが真宗であり解決した方が親鸞聖人ではないかと思うわけです。

答えを得てはいけないとなると、親鸞聖人自身が自身の解決をされなかったということになるのではないかと、そう思うわけです。問いを持つとすれば

何故答えを得てはいけないのか、親鸞聖人は何の解決もなされなかったのか、という事に問を持つべきだろうと思います。(副住職)

岩崎成章さんより直接いただいた『無相法信集』


表紙の裏に無相師の手紙が貼られて送られてきました
無相師も岩崎さんも父に対して暖かい方であったようです