2019年6月26日水曜日

かくれ念仏

 今月20日、近隣の大谷派の若い僧侶数人と鹿児島で現地研修を行うために行ってまいりました。
主な目的は鹿児島の「かくれ念仏」についての学習です。
「かくれ念仏」というのは鹿児島県特有のものですが、「かくれ念仏」という名称は昭和31年発行の『日本歴史大辞典』に当時、鹿児島大学の桃園恵真氏が江戸時代における薩摩藩の一向宗禁制をわかりやすく言うために「かくれ念仏」と名付けられたようです。
 
 わたしは以前、鹿児島県の甑島というところに住んでおりました(昭和50年代前半)。住んでいたといっても私自身は4歳から小学校3年生までなのですが、「かくれ念仏」は知っていました。甑島の長浜(小学校の裏山の道)にも「かくれ念仏洞」があり、2度ほど訪れた記憶があります。しかし、どのようなことが行われていたを当時の私は知ることもありませんでしたが、「かくれ」という響きが非常に印象深く、甑島の長浜にあるかくれ念仏洞の雰囲気から何か暗いものを感じていたのは確かです。そういう意味で今回の研修旅行は非常に楽しみしていたのと、大きな学びがあることが期待されるものだと思っていました。前置きはこのくらいにして内容に移ります。

さて、かくれ念仏というのは

鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。

 弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。

 幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。

 このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。(西本願寺 鹿児島別院 一部抜粋)

 花尾かくれ念仏洞に向かう途中に広場があり、そこにある説明の看板です。
この広場は江戸時代にはおそらく民家があり、その裏手に花尾かくれ念仏洞につながる道が
あるのだと思います。そして、かくれ念仏洞でお念仏を称えていたとあります。かくれ念仏洞
でも、広いものでしたら洞に入りお勤めやお念仏を称えるということでも出来たでしょうが、
狭い念仏洞でしたら名号軸や仏具を隠しておき、信者がどこかに寄り合った時に取り出しお勤めを
していたというものもあります。
 先ほどの案内板から約300M山に入っていきます。
6月の朝、この時は鹿児島は梅雨入りをしていたので
多少の湿気がありました。本格的な夏になるとかなりの湿度
ではないかと思われます。当然足場はよくありません。コケ類もそうですが、湿気を
好む植物が多いので足元に気を付けなければなりません。

 今ではこのように鬱蒼としていますが、江戸時代などは燃料に薪を使う為に、もっと
山に手が入っていたと思われます。昔の人は落ちている枝も葉も集めているわけですから
もう少し見通しが良かったのかもしれません。そうすると、このようなところでも
昼間であれば人目に付くという事があるかもしれませんので、かくれ念仏洞に行こうとすると
夜になると思われます。この道を夜に、しかも草鞋で月明かりをたよりにしてとなると
簡単なことではありません。

左奥でお勤めできるようになっています。
 大きな岩が二つ寄りかかっており、その足元に洞の穴があります。
岩自体は6Mくらいはあったと思います。家の2階の天井よりも少し高いくらいではないでしょうか。
合掌しているようにも見えます。
洞の入り口外の左手に説明書きとローソク線香のセットが備え付けられています。

 というものです。江戸時代の300年間、薩摩藩の真宗門徒は苛烈な弾圧に耐えながら様々な形態で信仰の灯を消すことなく存続していました。
なかでも天保6年(1835)には徹底した弾圧があり、藩内をくまなく探索し嫌疑者に自白をさせるために激しい拷問を加えたとあります。

本願寺派の鹿児島別院には「涙石」というのがありますが、それはまさに拷問の際に使用されたものです。割り木の上に正座させられ、30~100㎏程の石を膝の上に置かれます。
それだけではなく、その石を拷問官が棒で叩くという事ですから想像を絶する苦痛を味わされたに違いありません。幾人もの信者が膝の上に置かれた石に涙したことでしょう。

涙石
本願寺派鹿児島別院にあります。これほどの石を割り木の上に正座をさせられて膝上に置かれるのですから
想像できません。痛くて涙したのか、悔しくて涙したのか、多くの人の涙を吸い取った石です。


 そもそも、どのような経緯があって禁制になったかというのは諸説あるようですが、薩摩藩の藩主である島津氏に危険視されていたのは間違いなさそうです。藩令として禁制が
打ち出されたのは島津義弘の時代ですが、それ以前より禁止令はあったようです。ですので、300年以上の長きにわたって禁制であったということは間違いないということです。

 そして解禁されたのは明治9年9月5日ですが、延べ14万人もの信者が弾圧されたということですが、いくら過酷な弾圧であっても権力や制度によって信心を奪う事が出来なかったということであります。

 権力に奪われることのなかった真宗門徒の信心は一体どのようなものであったのか、その手掛かりが上甑島(甑島は上甑島、中甑島、下甑島と分かれており、私たちがいたのは下甑島です)にあった「上甑島二十三座講」に残されている御消息によって伝えられております。

「一念発起平生業成の御信心のうえに、仏恩の称名相続御身となえられ候人々は、自然諸神諸仏かろしめ奉らじ、諸宗諸法そしらじまして、世間五倫五常をつつしみ候て、身には、せましきさをせじ、口には、いうまじきことをいはじ、意に、おもうまじき悪事をことさらにたくみに結ぶことあるまじき候。いよいよ天下の御禁制国守法法度をまもりて、内心に仏恩の称名念仏相続し給ふべき事肝要に候。これ即真宗繁昌の御徳に候」

 とあります。外心には藩の禁制に従っているように振舞っていても、内心では本願念仏の信心をいただき続けていたということでありましょう。
 幕藩体制というのがいつ終わるかもわからない中で、過酷な弾圧に耐えながら信心を深めていくということを何世代も続けてきたわけですからそのご苦労は計り知れません。

 「内心に仏恩の称名念仏相続し給ふべき事肝要に候」と薩摩の人は禁制の中でこの肝要なることを同行の中で確かめ合い、後に続く者に相続していく事を願い、そして今に本願念仏が伝えられているのだと感じ取ることができるものでした。(了)

真宗大谷派鹿児島別院発行のかくれ念仏資料です。
43ページですが、かなり纏まっており詳しく知ることができます。
別院にて500円で販売ております。