2019年4月13日土曜日

4月22日 念佛寺永代経 のご案内

念佛寺永代経を来月22日に勤めます。
 
 真宗寺院の永代経は諸宗の永代供養とは異なる意味合いで勤まります。諸宗の場合は永代に渡り経典を読誦し故人の冥福を祈り供養するとされていますが、真宗寺院の場合は仏法を永く聴聞する機縁として執り行われます。
 
日時: 4月22日(月曜日)

時間: 午前10時 お勤め お勤め終了後住職法話
           
             休憩 
 
             午後2時 お勤め  お勤め終了後御講師法話


持ち物: お念珠  お勤めの本(お寺にも用意してあります)



御講師案内


岩佐 幾代 師  (飛騨市 浄永寺)

南無阿弥陀仏

2019年4月4日木曜日

「われは鬼」

「われは鬼、念佛は弥陀のあたえもの」
一蓮院師の法語を集めた『一蓮院談合録』に収められている言葉ですが、目を引くのはやはり「鬼』という言葉ではないでしょうか。

『一蓮院談合録』今井昇導師によって編纂されたものですが、もとは一蓮院秀存という江戸時代の大谷派講師の言葉で当時の御門徒とのやりとりが元になっているようです。その時代の語録等にはよく「鬼」という言葉が出てまいります。現代でも「鬼」という言葉は使われますが、その当時に比べ使い方としては多様化しているように思います。身近なものだと「鬼嫁」などもありますが、「仕事の鬼」など「鬼=並外れている」というニュアンスで若者の間でも使われているようなものもあります。
 しかし、大部分では以前と変わらず「怖い、恐ろしい」という意味合いのものが多いのではないでしょうか。語録にある「われは鬼」と言った場合の意味合いはまさに「怖いもの、恐ろしいもの」が自分の内にあるという事でしょう。親鸞聖人は

「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、腹立ち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、絶えず」

 と仰っています。自分自身は今までどれくらいいかり、はらだち、そねみ、ねたむ心を起こしてきた事でしょうか。思い当たるだけでも驚くほど起こしているのですが、では、その心を起こしたことに対して「申し訳なかった」と思う事はどれほどあるでしょうか。いかり、腹立ちによって相手を傷つけることがあったとしても、どこかで自分を正当化し守り続けるのが「無明煩悩われらが身にみちみちて」と自分の在り方を親鸞聖人が仰っています。

 私たちの本当の在り方は清廉潔白で善行を好む人間ではなく、いつでも自己中心的で我欲中心の生き方を棄てる事の出来ない煩悩そのものの凡夫の私自身を「鬼」というのでありましょう。また、今までの鬼のような「怖い、恐ろし」というものではなくて非常に「冷たい」という場合もあります。その本質も自己中心的なものですが他者に対して「無関心」という事もあるのではないかとおもうのです。「無関心」による他者への冷たさは、する側にしてみれば気がつきにくい性質のものかもしれません。要するに関心が無いわけですから、自分との関わりを保っている意識そのものがなく、罪悪感なども生まれにくいものです。

 しかし、される側にとってみれば非常に傷つくものです。よく取沙汰されているのは東北の震災に対する風化ですが、風化というのは関心を失う事によって起こるものです。無関心とまではいかないにしても関心が薄れる事によって地域的な孤立感、関係的な孤独感が生まれ、現地の方々を苦しめ続けています。

 「われは鬼」というのは自己中心的な生き方をする煩悩成就の私の事なのですが、その事実は知ろうが知るまいが反省しようがしまいが「鬼」であることに変わりありません。

 いくら申し訳なかったと反省したとしても、反省の結果などで「鬼」をやめることは出来ません。少しずつ良い方向に変わっていくという事も無い「仏」から一番遠くにいる存在であると阿弥陀仏の眼に映っているのです。ですが、その「仏」から一番遠い憐れな存在を助ける事が出来ないような「仏」ならば「仏」になりはしない、我が名を称えるままで「必ず浄土に生れさせる」とお誓いになれれたのが阿弥陀仏です。
  その阿弥陀仏に出遇うのは、西方に十万億の仏土を経た遙遠なところではなく、今この煩悩の生活の真っ只中に届きあたえられたナムアミダブツの一声であるといただくばかりであります。

ナンマンダブツ
近所の桜(去年のです)