2018年10月14日日曜日

10月12日 念佛座談会
 
 今回は「疑心」という事から座談会がはじまりました。
「疑い」と言っても世間話で出てくる疑いではなく、仏法聴聞をする事によってあきらかとなってくる阿弥陀様の本願に対する疑惑ということです。
 真宗は信心正因と言われるように信心が要となります。この信心によって仏に成る道が開かれてくるわけですが、佛の教えを信じて疑いのない心を自分自身に起こすということは実は簡単な事ではありません。
 一方、「疑心」は私自身に備わっているもので、これは無くそうと思っていても簡単になくせるものではありません。私達は日常生活の中で様々な物事に対して疑心を抱くことがあります。ですので、「疑心」は非常に身近な事で分かり易いと思うかもしれませんが、親鸞聖人は「自力」(『一念多念文意』には「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」)ということも「疑心」であると考えられました。

 つまり自分の力を頼りとし、その力によって浄土に生れようとするのは、結局のところ本願を信じているのではなくて自分の考えや智慧才覚を信じているのだという事です。ですので、我が心で阿弥陀様の本願に向かうと「疑心」でしかありません。我が心で向うところは疑心であるということがはっきりしているという事は救いがはっきりしているという事でもあります。先師が


「疑い晴らして信ずるにあらず、晴らざるが凡夫の心なり」

 
 と仰いましたが、それが我が心なのでしょう。疑心の晴れない者を必ず助けるとの本願ですが、だからと言って「疑いがあるがそれで良い、そのままのあなたで良い」というところに落ち着くのではありません。
 この辺りはよく誤解されやすいところですが、本願を疑っていても良いとは阿弥陀様は仰りません。凡夫として疑うより他にない者を助けるいう大悲の御声が聞こえているかどうか、聞こえる事で自分の疑心には用がなくなります。

最後に三河のおそのさん(1777~1853)のことばを紹介しておきます。

「疑いよ ここききわけて いんでたもう そちがいるゆえ 信がえられぬ」

「疑いに ここをのけとは 無理なこと むねをはなれて 何処へいきましょ」

「疑いよ 是非いかぬなら そこの居よ そちにかまわず 信を取るべし」

「疑いは 何処に居るかと 問ふたれば かわりに出てくる 念仏の声」


ナンマンダブツ
次回の念佛座談会は11月2日です。
どうぞご聴聞ください。