12月 2日 念佛座談会
寒くなりましたね。
今回は松並松五郎さんの歌からです。
・ほれられて 南無阿弥陀仏と 聞けよかし こざかし顔は 弥陀にうときぞ
・聞き分けし 言の葉末を うちはなれ 南無阿弥陀仏と 称え皆人
今回は座談会の冒頭で松並さんを紹介している新聞記事について住職がふれておりました。
1979年1月の読売新聞に松並さんを紹介した記事があるという事ですが、「著名な妙好人(みょうこうにん)は昭和の初期に絶えたと思われていたが、その系譜は現在も松並氏につづている」との趣旨の記事が掲載されているとのことです。
「妙好人」というのは浄土真宗の篤信者で鈴木大拙師によって広く知られるようになりました。鈴木大拙師も松並さんを紹介しようとされたそうですが、松並さんはお断りになられたという事です。
テキストは松並さんの歌ですが、表現が少し難しいかもしれませんね。
1首目の「こざかし顔」、2首目「聞き分けし」というところが問題になってくるところではないでしょうか。
阿弥陀様の仰せを自分の計らい心なく、そのままその通り聞くということが「信」ということになるのですが、どうしても自分の計らい心が邪魔をしてしまいます。何ごとも自分で解釈しなければどうも収まりがつかないというか、しっくりこないような思いがするものです。これは何も特殊な事ではなくて、何かを得る時には自分の考えや理解を必要とするものです。しかし、その事が阿弥陀様の仰せを素直に聞けない原因でもあります。親鸞聖人は『末燈鈔』で、
摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候ふ。浄土へ往生するまでは不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにて発起せしめたまひ候ふとみえて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべしとみえ候ふなり。
ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。あなかしこ、あなかしこ。
と仰っておられます。
最後の方に「ともかく行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。」とあります。こちらのはからいは”ちりばかりも”いらず、自分に理解できず、わからないままに聞かせて頂くばかりで助けるまで仕上げて下さっています。
聞き分け知り分けは一つも必要なく、私が信じるということにも用がなくなります。「こざかし顔」や「聞き分け」は私がどうにかなる出来るような事ではありません。その私だからこそナムアミダブツとなって私に届いてくださる一声一声が阿弥陀様の大悲の御声であると聞かせていただくばかりであります。
ナンマンダブツ
ナンマンダブツ
次回が12日です。
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