2016年11月28日月曜日
念佛寺報恩講 のご案内
報恩講とは宗祖親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要で、念佛寺に於きましては毎年12月22日に勤めております。
親鸞聖人がいただかれた念佛往生の教えに遇い、自らの帰依処を教えていただいた御恩に報謝しいよいよ聞思深めていく場でもあります。
真宗門徒にとりまして大切な法要です。お参りください。
日時 :12月22日
時間 :午前10時~ お勤め 後 住職法話
午後 2時~ お勤め 後 御講師法話
持ち物:お念珠 (お勤めの本はこちらで用意しております)
諸事項:駐車場はありませんのでなるべく公共交通機関をご利用になられるか周辺パーキングをご利用ください。
念佛寺報恩講 御講師 案内
東近江市 真宗大谷派玄照寺 瓜生崇さん
12月の予定
本山の報恩講も終わり、今年も残すところあとひと月とまりました。さて、12月の念佛寺の予定ですが
念佛座談会 2日 午後3時~
12日 午後3時~
聖典講座 6日 午後7時~
真宗入門講座 18日 午後6時半~
念佛寺報恩講 22日 別途案内
となっております。
12月は念佛寺報恩講が執り行われます。別途案内をしておりますので、詳細はそちらをご確認ください。よろしくお願い申し上げます。
念佛寺
本山の報恩講も終わり、今年も残すところあとひと月とまりました。さて、12月の念佛寺の予定ですが
念佛座談会 2日 午後3時~
12日 午後3時~
聖典講座 6日 午後7時~
真宗入門講座 18日 午後6時半~
念佛寺報恩講 22日 別途案内
となっております。
12月は念佛寺報恩講が執り行われます。別途案内をしておりますので、詳細はそちらをご確認ください。よろしくお願い申し上げます。
念佛寺
2016年11月21日月曜日
御正忌報恩講が始まりました
報恩講とは親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要の事で、真宗門徒にとっては一年で最も大切で中心となる仏事です。
報恩講は親鸞聖人の三十三回忌に当たり、覚如上人が『報恩講私記』をお作りになって法要の次第を整えられ、蓮如上人の時代には各地の寺院や道場でも勤まるようになりました。その内容は、親鸞聖人が出逢われた本願念佛の教えが今現在連綿と私たちにも伝えられ、帰すべき最勝の道を示し、如来の救済の真なることを顕かにされ、その御恩に報謝し恩徳の深きことを敬い報ず講(あつまり)です。期間は毎年11月21日から11月28日まで勤まっております。
今年は21日にお参りすることができました。
今年は「真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要」も勤まり、多くの御門徒方がお参りになられており、私どもは今年は家族4人でお参りさせていただきました。
真宗門徒にとって報恩講は「一年は報恩講に始まり報恩講に終わる」と言います。始まりであり終わりですが終わりがまた始まりでもあります。それは同時に念佛に始まり念佛に終わる。一日も念佛に始まり念佛に終わるのですが、一瞬一刹那いや、常に念佛は私から離れません。一声「なんまんだぶつ」と言うところに阿弥陀様との出会いがあります。本山でも阿弥陀様に出逢えます。それは仏像ではなく、名となり声となっている「なんまんだぶつ」の阿弥陀様です。阿弥陀様に出逢えるということは阿弥陀様の摂取不捨に出逢うということです。その事を懇切丁寧に私たちに示してくださったのが親鸞聖人です。
「重ねて乞う、仏閣基固くして遥かに梅怛利耶(ばいたりや:弥勒菩薩)の三会に及び、法水流れ遠くして普く六趣四生の群萌を潤さん。」
(弥勒菩薩が成仏される、はるか五十六億七千万年の後まで、教えが流れ、人々を潤すことを乞うてやみません) 『歎徳文』(存覚上人)
なんまんだぶつ なんまんだぶつ
報恩講とは親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要の事で、真宗門徒にとっては一年で最も大切で中心となる仏事です。
報恩講は親鸞聖人の三十三回忌に当たり、覚如上人が『報恩講私記』をお作りになって法要の次第を整えられ、蓮如上人の時代には各地の寺院や道場でも勤まるようになりました。その内容は、親鸞聖人が出逢われた本願念佛の教えが今現在連綿と私たちにも伝えられ、帰すべき最勝の道を示し、如来の救済の真なることを顕かにされ、その御恩に報謝し恩徳の深きことを敬い報ず講(あつまり)です。期間は毎年11月21日から11月28日まで勤まっております。
今年は21日にお参りすることができました。
今年は「真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要」も勤まり、多くの御門徒方がお参りになられており、私どもは今年は家族4人でお参りさせていただきました。
曇り空でしたが暖かい日でした |
御影堂門前の木々もいい色合いです |
各地からお参りされておりました |
真宗門徒にとって報恩講は「一年は報恩講に始まり報恩講に終わる」と言います。始まりであり終わりですが終わりがまた始まりでもあります。それは同時に念佛に始まり念佛に終わる。一日も念佛に始まり念佛に終わるのですが、一瞬一刹那いや、常に念佛は私から離れません。一声「なんまんだぶつ」と言うところに阿弥陀様との出会いがあります。本山でも阿弥陀様に出逢えます。それは仏像ではなく、名となり声となっている「なんまんだぶつ」の阿弥陀様です。阿弥陀様に出逢えるということは阿弥陀様の摂取不捨に出逢うということです。その事を懇切丁寧に私たちに示してくださったのが親鸞聖人です。
「重ねて乞う、仏閣基固くして遥かに梅怛利耶(ばいたりや:弥勒菩薩)の三会に及び、法水流れ遠くして普く六趣四生の群萌を潤さん。」
(弥勒菩薩が成仏される、はるか五十六億七千万年の後まで、教えが流れ、人々を潤すことを乞うてやみません) 『歎徳文』(存覚上人)
なんまんだぶつ なんまんだぶつ
2016年11月14日月曜日
12日 念佛座談会
12日 念佛座談会
まず、「お寺では聴聞できますが、それを離れてはなかなか聴聞できません」という質問に、
「常於大衆中 説法師子吼」(三誓偈)
法蔵菩薩は常に大衆の中に於いて説法したいと願われました。それが南無阿弥陀仏です。我々はその南無阿弥陀仏の声を聞いて阿弥陀様のお説法を常に聞く事が出来るように仕上げてくださっているのです。
本日のテキスト『名師の言葉』
・(香樹院師の)仰せに。どこかに腰ぬけがあるとみえて、阿弥陀の三字を、おさめ、たすけ、すくうと読むとある。機の造作をはなれて、ただ大悲のまことを仰ぐばかりじゃ。
・ 源正寺殿。ご大病にて何人にもお逢いなさらぬ。しかるに信次郎士にかぎりお逢いなされた。その時のお話に
「皆々が称えるばかり称えるばかりと云うておるが、己には気にくわぬ」と。信次郎士いわく。
「昔、一蓮院師の、美濃の嘉右衛門同行にたいして、大浜のお竹の領解をきかせてくれよとありた時、同行云。『称えるばかりじゃ、称えるばかりじゃと喜ばれます』と申し上げた。
その時一蓮院師の仰せに『如来様が助けてやるとおっしゃるで、称えるばかりと云うたであろう』」と。源正寺殿、この物語に、病を忘れて喜ばれた。
「称えるばかり」という事を源正寺殿は聞き違ってはいない。ただ「本(もと)」を言わないといけない、つまり「如来様が助けてやるとおっしゃるで」をその通りに聞くということ聞かねばならない、ということです。
今回の座談会では「称えるばかり」という事などが話題となりましたが、自分の疑問などを話すことによってその場にいる方の中にも同じ疑問があったと気付くことがあります。
逆に自分一人で考え本を読むなどして理解したとしても結局は自分の考えに終始してしまい、如来様のお心をいただくことはなかなかできません。まずはお念仏の声を聞きお心を聞いていく、そこに自然と育てられていくのです。
次回は12月2日です。
寒くなりますね。
念佛寺
本山報恩講始まります
報恩講とは、真宗において、親鸞聖人の恩徳に報謝する法要です。親鸞聖人の祥月命日にあわせ、真宗大谷派ではこの時期に勤修され、御正忌報恩講ともよばれます。真宗では最も重要な年中行事とされ、全国から御門徒が本山に上山されます。大切な法要です。是非お参りください。
詳しくは東本願寺のHPで確認してください。↑の写真をクリックすると東本願寺の案内に行けます。
念佛寺
12日 念佛座談会
まず、「お寺では聴聞できますが、それを離れてはなかなか聴聞できません」という質問に、
「常於大衆中 説法師子吼」(三誓偈)
法蔵菩薩は常に大衆の中に於いて説法したいと願われました。それが南無阿弥陀仏です。我々はその南無阿弥陀仏の声を聞いて阿弥陀様のお説法を常に聞く事が出来るように仕上げてくださっているのです。
本日のテキスト『名師の言葉』
・(香樹院師の)仰せに。どこかに腰ぬけがあるとみえて、阿弥陀の三字を、おさめ、たすけ、すくうと読むとある。機の造作をはなれて、ただ大悲のまことを仰ぐばかりじゃ。
・ 源正寺殿。ご大病にて何人にもお逢いなさらぬ。しかるに信次郎士にかぎりお逢いなされた。その時のお話に
「皆々が称えるばかり称えるばかりと云うておるが、己には気にくわぬ」と。信次郎士いわく。
「昔、一蓮院師の、美濃の嘉右衛門同行にたいして、大浜のお竹の領解をきかせてくれよとありた時、同行云。『称えるばかりじゃ、称えるばかりじゃと喜ばれます』と申し上げた。
その時一蓮院師の仰せに『如来様が助けてやるとおっしゃるで、称えるばかりと云うたであろう』」と。源正寺殿、この物語に、病を忘れて喜ばれた。
「称えるばかり」という事を源正寺殿は聞き違ってはいない。ただ「本(もと)」を言わないといけない、つまり「如来様が助けてやるとおっしゃるで」をその通りに聞くということ聞かねばならない、ということです。
今回の座談会では「称えるばかり」という事などが話題となりましたが、自分の疑問などを話すことによってその場にいる方の中にも同じ疑問があったと気付くことがあります。
逆に自分一人で考え本を読むなどして理解したとしても結局は自分の考えに終始してしまい、如来様のお心をいただくことはなかなかできません。まずはお念仏の声を聞きお心を聞いていく、そこに自然と育てられていくのです。
次回は12月2日です。
寒くなりますね。
念佛寺
本山報恩講始まります
報恩講とは、真宗において、親鸞聖人の恩徳に報謝する法要です。親鸞聖人の祥月命日にあわせ、真宗大谷派ではこの時期に勤修され、御正忌報恩講ともよばれます。真宗では最も重要な年中行事とされ、全国から御門徒が本山に上山されます。大切な法要です。是非お参りください。
詳しくは東本願寺のHPで確認してください。↑の写真をクリックすると東本願寺の案内に行けます。
念佛寺
2016年11月8日火曜日
『木村無相 お念佛の便り』 永田文昌堂より出版いたしました。
この度、『木村無相 お念佛の便り』を永田文昌堂より出版いたしました。定価は2,000円です。
前回も同じタイトルで出版させていただいておりましたが、在庫も僅かとなり、更にはご好評いただいておりましたので永田文昌堂さんのご協力もいただき、この度の出版のはこびとなりました。
内容は前回分とほとんど変わりませんが、若干あとがきなど加えてあります。
この本は、念佛寺住職と念佛者木村無相さんの手紙のやりとりを載せているものです。
木村無相さんの最晩年の手紙もあり木村さんの体調の変化や息遣いも感じられる様な内容となっております、 お念仏の信心を求めている方や念佛者木村無相さんに触れたい方などのお目に触れることが出来れば幸いであります。
念佛寺
この度、『木村無相 お念佛の便り』を永田文昌堂より出版いたしました。定価は2,000円です。
前回も同じタイトルで出版させていただいておりましたが、在庫も僅かとなり、更にはご好評いただいておりましたので永田文昌堂さんのご協力もいただき、この度の出版のはこびとなりました。
内容は前回分とほとんど変わりませんが、若干あとがきなど加えてあります。
この本は、念佛寺住職と念佛者木村無相さんの手紙のやりとりを載せているものです。
木村無相さんの最晩年の手紙もあり木村さんの体調の変化や息遣いも感じられる様な内容となっております、 お念仏の信心を求めている方や念佛者木村無相さんに触れたい方などのお目に触れることが出来れば幸いであります。
念佛寺
2016年11月4日金曜日
2日 念佛座談会
11月2日の念佛座談会。
いつものようにお念仏に親しみ、そして座談会を始めます。
今回のテキストは『香樹院徳龍師の言葉』と『松並松五郎語録』からです。
もう何年も念佛座談会を行っておりますので先師の同じ言葉を何度も何度もいただいております。
しかし、「これは前に習いました」とならないのが仏法なのです。「今」どのようにいただいているのかが問題であり、過去に学習した知的理解を求めているものではありません。
ですので、その時にどのようにいただいたのかを今の心のままをお互いに聞く、それが念佛寺座談会です。
『香樹院徳龍師の言葉』
・頼め助けようとのたまうは、たのまぬ先に助かるように御成就の南無阿弥陀仏。爾れば頼んだら助かられようか、また助かるまいかの分別のある筈はない。たのめば助かるの勅命なり
・助かりたいと思う我等の心は疎かなれども、助けたいの大悲の念力に引きよせられて、必ず必ず疑いは晴るるほどに。危なげなく此世を暮らし、御称名を励まっしやれ。
『松並松五郎ご語録』
・この世がようなったらあかん。もう仏法に離れる。それが念仏するとようなってくる。それはええねん。
「たのまぬ人」「たのめぬ人」はなかなか如来のお心がとどかないのでしょう。とどかないから自分の心を持ち出し分別し「助ける」を素直に受け取る事が出来ない「聞不具足」ということです。
「わたしは邪見驕慢ですからなかなかいただけません」という人もいますが、そう言いながら自分を持ち出し如来に背いているという事に気が付かないでるし、邪見驕慢なそういう私を必ず助けると仰る仏のお心がとどかないでいます。
次回は11月12日です。
いつものようにお念仏に親しみ、そして座談会を始めます。
今回のテキストは『香樹院徳龍師の言葉』と『松並松五郎語録』からです。
もう何年も念佛座談会を行っておりますので先師の同じ言葉を何度も何度もいただいております。
しかし、「これは前に習いました」とならないのが仏法なのです。「今」どのようにいただいているのかが問題であり、過去に学習した知的理解を求めているものではありません。
ですので、その時にどのようにいただいたのかを今の心のままをお互いに聞く、それが念佛寺座談会です。
『香樹院徳龍師の言葉』
・頼め助けようとのたまうは、たのまぬ先に助かるように御成就の南無阿弥陀仏。爾れば頼んだら助かられようか、また助かるまいかの分別のある筈はない。たのめば助かるの勅命なり
・助かりたいと思う我等の心は疎かなれども、助けたいの大悲の念力に引きよせられて、必ず必ず疑いは晴るるほどに。危なげなく此世を暮らし、御称名を励まっしやれ。
『松並松五郎ご語録』
・この世がようなったらあかん。もう仏法に離れる。それが念仏するとようなってくる。それはええねん。
「たのまぬ人」「たのめぬ人」はなかなか如来のお心がとどかないのでしょう。とどかないから自分の心を持ち出し分別し「助ける」を素直に受け取る事が出来ない「聞不具足」ということです。
「わたしは邪見驕慢ですからなかなかいただけません」という人もいますが、そう言いながら自分を持ち出し如来に背いているという事に気が付かないでるし、邪見驕慢なそういう私を必ず助けると仰る仏のお心がとどかないでいます。
次回は11月12日です。
登録:
投稿 (Atom)