2019年3月14日木曜日

「念佛寺春彼岸会」と念仏寺HP更新のご案内

 念佛寺「春 彼岸会」を3月22日(金)に勤めます。
 普段あまりご聴聞できない方やまだ法話を聞いたことのない方は是非この法縁に遇われてください。また普段から親鸞聖人のみ教えに触れている方々もお待ちしております。

   記

日時:3月22日(金)

時間:午後2時~4時 
(2時よりお勤め、終了後休憩を挟み住職法話)

持ち物:お念珠 (お勤めの本は用意してあります。)

どなたでも参加できます。

駐車場はありません。車でお越しの場合は周辺駐車場をご利用ください。



質問等ありましたらHPよりメールか電話で問い合わせてください。
急な変更がある場合はブログで案内いたします。
              
  念佛寺


HP『住職思索』の更新について

 お気づきの方もおられると思いますが、先日、念佛寺HPの『住職思索』を更新いたしました。「ものとこころと流転」 「第十八願はなぜ『至心信楽の願か』」の2つです。これは「朋友」(朋友学舎発行の新聞)に掲載した文章です。
 
 質問やご感想などがあればメール等で寄せてください。
お待ちしております。

念佛寺











2019年3月9日土曜日

『住職思索』更新しました

 今回の案内は念佛寺HP『住職思索』の更新です。
「ものとこころと流転」と「第十八願はなぜ『至心信楽の願』か」の2つです。『朋友』の掲載した住職執筆文と同じものです。じっくり読んでいただければ幸いです。どうぞご覧になってください。

念佛寺HP『住職思索』 http://nenbutsuji.info/monmyou.htm

念佛寺

2019年2月16日土曜日

『瘤(こぶ)』

 今回のテキストは『一蓮師談合録』からです。


 一蓮院師は、毎朝毎夜、内仏に何か書いたものをとり出してはご懺悔ありた。ある時、信次郎殿にこれをお見せになった。それは『瘤』という字でありた。「信次郎や己は、瘤のようなもので、邪魔にこそなれ、何の役にも立たぬものじゃ」     

 (私「今井昇道師」にいわく。これ一蓮院師が、真に自己の価値を真実に自覚せられ、又表白されたお言葉である。この自覚がやがて他の一面には、「信次郎、阿弥陀様ばかり、ばっかりという事を忘るるなよ」の大教訓、大自覚と顕れたのである。私の心へ出たものは、「阿弥陀様ばかりと思う」心さえ瘤である。これに着するから直ぐこまりて来る。邪魔にこそなれ、役には立たぬ代物じゃ。まして他の凡夫心をやだ。凡夫の心は一切瘤で往生の要に立たぬとすれば、凡夫の思いの寸毫も雑じらぬ、凡夫の力の少しもいらぬ「貴方御一人の御力で助けて戴くより外、道がないじゃないか、貴方ばかりと思う心をたのむなら、貴方ばかりじゃない。唯一向に貴方ばかりが、一心に弥陀をたのめというものじゃ。たのむ心をたのむが私の大瘤だ。この大瘤が知れにゃ一心に弥陀をたのむ心は起こらぬ。余人は知らず、昇道はこの大瘤がいつもはなれぬ。それでいよいよお助けをたのまにゃおられぬ。いよいよ貴方が根機に相応して下された事がひしと身に感ぜらる。邪魔になる大瘤も、本願があればこそ、息のつき場がある。肩が広くなる時もあるというものじゃ)  
 

 生きていると何度も行き詰まることがあります。人それぞれ大小さまざまですが、行き詰まる事のない人生を送る人はまずいません。現代は非常に合理主義的な生き方を各々がしていく時代になっていますが、合理主義的というのは現代では生きて行く上で行き詰まりの少ない生き方のようにみえます。企業でもそうですが合理主義的な経営を行わなれるのが一般的でありましょう。最近ではIOTや人工知能といった言葉を目にするようになりましたが、これらも企業の経営の効率化、生産性の向上などに必要な技術であり、それによって無駄を省き、より収益性の高い企業体質を実現できるようになっています。
 
 家庭の中でも合理化は進み続けています。無駄と思われるものはさっさと捨て、必要なものだけ残していく。一昔前でしたらいつ使うかわからないようなものが物置に山積みになっていたのですが、最近はどうでしょうか、あまりそのような光景を見かけなくなりました。賃貸のマンションでは家具や食器類でさえも備え付けてあるというところもあります。出来るだけシンプルな生き方をするということは生活の合理化で無駄と思われるものを除き、振り回されず、行き詰まりの少ない生活を実現しようとしているのかもしれません。

 合理化の対象はあくまでも自分の主観で決めた「無駄」という概念です。その背景には「自分は正しい」という自己肯定感があるのでしょうが、最近問題となっている児童虐待、DVというものも親など「する側」の考えや行動を自分で肯定した結果として生み出されるものであります。そこには「正しい側」「間違っている側」というようなものが生れますがこれは、合理主義から起こる「有益」「無益」の対立構造に似ています。何れにせよ、自分の考えや判断が「正しい」と思って起きてきますので、他者と衝突するのは当然です。自分の正しさを持つもの同士が違う考えを持てばお互いに自分の正当性を主張します。そうするとぶつかり合いお互いに傷ついていくことになります。それを角砂糖に譬えられた方がおられましたが、衝突しあうとお互いが崩壊していきます。崩壊してくると自分が自分として保てなくなり、当然行き詰まるようになります。
 
 自分の主観は嘘や仮のようなものであってもを真(まこと)と捉え不実なものを真実であると錯覚し、更には自己の主観こそが正しいと認識します。親鸞聖人はそのような凡夫を「邪見驕慢の悪衆生」と仰せられ、その内容を御自身の内にみられた一蓮院師は「瘤(こぶ)」と仰いました。「邪魔にこそなれ、何の役にも立たぬものじゃ」と仰っているのですが、それこそが本当の自己の自覚であると言われております。しかし、その後に今井師が他の一面に於いて「阿弥陀様ばかり、ばっかりという事を忘るるなよ」というところに注目しています。

 このようなお言葉をいただくとつい「阿弥陀様ばかりと思わなければならない」とか「阿弥陀様ばかりとおもうようになるものだ」と自分の方に持ち替えそして自分なりの解釈をし、それを根拠に自分の考えを正当化していきます。今井師は「これに着するから直(す)ぐこまり(困って)てくる。邪魔にこそなれ、役に立たぬ代物じゃ」とご自身のお心を述べられ、 しかし、「昇道はこの大瘤がいつもはなれぬ。」と仰りつつも、だからこそ阿弥陀様の大悲心がひしと身に感じられると仰っています。
 瘤が取れるのものであればすぐにでも取りたい。そうすれば素直に受け止める事が出来る。その事くらいはわかります。ですが、自分の力では到底取ることができないのが私の瘤。それを一蓮院師は「己」と仰ります。自分で引き離せないほどの大瘤も消す事なく、そのままで助ける阿弥陀様のおはたらきは南無阿弥陀仏となり大瘤を取ることの出来ない私に届くようになっております。自分でとれと言われたら忽ち行き詰まりますが、「瘤のままで南無阿弥陀仏を聞いてくれ、必ず助ける」という大悲救済があるからこそ行き詰まりつつも「息のつき場」が与えられてくるであります。

ナンマンダブツ

どうぞご聴聞にお越しください。
お待ちしております。

念佛寺


淡路島:灘黒岩水仙郷にいきました





2019年2月13日水曜日

3月6日の『聞名の会』の変更について

 毎月6日午後7時より『聞名の会』を開催しております。3月は門徒会の本山上山に住職が伴いますので、休会とさせていただきます。
休会分は3月8日午後7時よりとさせていただきます。よろしくお願いいたします。


聞名の会の変更

3月6日 午後7時~  →  3月8日 午後7時


どうぞお間違えなくお越しください。
4月につきましては4月6日の予定となっております。
よろしくお願いいたします。

念佛寺

2019年1月31日木曜日

寺報 4ヵ月分をHPにUPしました

 今日は久しぶりに一日中雨が降っておりました。この時期の雨は冷たく寒さを一層際立たせますね。インフルエンザなども流行っておるようなので、用心してください。

 さて、滞っていたHPの寺報掲載ですが、4ヵ月分 (2018年10月号~2019年1月号) を纏めてUPいたしました。いつもHPに掲載をする時期が遅れ気味で、今月号を読もうとしても数か月前の更新で止まってしまっているという事ばかりですが、楽しみにされている方も多いようなのでなんとか続けさせていただいている次第でございます。今年の寺報掲載も数ヵ月という遅れが生じるかと思いますが、是非ともよろしくお願い申し上げます。また、質問やご感想、等がございましたらメール等で受け付けております。
よろしくお願い申し上げます。

念佛寺

2019年1月18日金曜日

1月も中旬となりました
 
 阪神淡路大震災から24年目になります。テレビ番組や新聞では特集が組まれたり
阪神間の各地では追悼行事などが行われました。阪神間の小中学校では震災集会などがあり、
震災の記憶を後世に伝えつつ、今後起こるとされている地震や津波に対しての心構えなどを
話し合う機会が設けられました。

 ここ数年、そのような集会は震災直後に比べて半数以下に減少したという事です。
24年経てばその当時集会を運営していた方々も高齢になり、その維持が出来なくなってきているというのが大きな理由だそうですが、どうしても関心が薄れ風化していくという事もあるのだと思います。
 
 私達の関心は変化し続けますが、その多くは自身より起こる「欲」が関係しているものです。
その代表的なもので五欲(色・声・香・味・触 に執着して起こす欲望 又は 財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲 )というものがあります。
 TVのコマーシャルや新聞広告などを見ていますと五欲に関連しているものばかりだと分かりますが、裏を返せば五欲に訴求する事で商品などに対する関心を集める事が出来ると
わかっているということです。そういうものに常に触れる環境に身を置いているわけですから、震災当時には非常に関心を持っていた事でも今ではあまり関心を持てなくなってしまったという事もあるのでしょう。 松並松五郎さんは

「この世がようなったらあかん。もう仏法に離れる」と仰いました。

 人生が順境だと思う事が悪いということではありませんが、何をもって人生を順境と言っているのかを知らなければなりません。
仮に我欲で満たされている人生を順境とするならば、仏教の教えからすると大きな誤りであると言わざるを得ません。

 そして、そのような我欲に満たされている状態を順境だと言っている時には、大事な物事を疎かにしてしまったり、仏教の教えにも耳を貸さないものでもあります。
 お経には国王であった法蔵がその王位を捨て、1人の沙門となったとあります。国王というのは世俗の頂点でもあり世俗の欲を実現する地位にあります。しかし、その地位を自ら捨てたという事は我欲の実現に人生の満足は無いという事ではないでしょうか。
 
お経は真実のさとりの領域から私達をあるべき在り方を示し、呼び覚まし、導いてくださる言葉です。
 我欲煩悩の尽きる事の無い一切の衆生を必ず浄土に生れさせ、安楽なさしめると誓ってくださった言葉が「南無阿弥陀仏」です。
 
 親鸞聖人は阿弥陀様の願いをよくよく案じられて「親鸞一人がため」と仰りました。最後の一人を漏らさず救う為に念佛となって喚び続けているのは、誓願を建てる最初から助かる縁すらない凡夫一人一人に深い関心を寄せ続けてくださる阿弥陀様の御慈悲の顕現であるといえるのです。
 
ナンマンダブツ







 

2019年1月10日木曜日

 新年にあたり、謹んでご挨拶申し上げます

 大変遅くなりましたが、今年もよろしくお願い申し上げます。
今年はお伝えしていた通り、学習会の開催内容に一部変更をさせていただきました。
早速6日に行われた『聞名の会』は「正信偈」に学ぶと言うことで住職による法話があり、それを熱心に聴聞される参加者の姿が見受けられました。

 新年を迎えた事で私の心に何か新たな心境が生まれるように思いますが、そう簡単に変わるわけではありません。昨年と同様、迷いや不安、苦しみ悲しみを感じながら生きていかなくてはなりません。
「正信偈」はそのような私の姿を知らせ、私と同じような悩み苦しみを抱いて生き、そして如来の摂取に出遇われた先師方が受け伝えてくだされたお念佛をいただき、
皆が浄土に生まれるべきであると教えられてあります。

 お念佛のみ教えは一言「南無阿弥陀仏」です。時に喜び時に苦しむ支離滅裂で虚構の人生の中で親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰いました。そのお心を共に尋ね、いただきたいと願っております。
 
念佛寺