2019年7月28日日曜日

8月の予定

 本格的に暑くなってまいりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
8月の念佛寺の予定をお知らせいたします。


6日   聞名の会   午後7時~9時 

10日 盂蘭盆会   午後2時~4時

となっております。
12日念佛座談会 ・18日真宗入門講座 ・22日真宗同朋の会 は休会ですのでお間違いのないようよろしくお願い申し上げます。

念佛寺

詳しくは 念佛寺HPまで http://nenbutsuji.info/

2019年7月27日土曜日

念仏座談会で


 先日、念仏座談会を行いました。今回の念仏座談会では住職の法話後、ご参加の方から、

「光に遇う者は三垢が消滅して、身意柔軟なり」とありますが、これは現世での事でしょうか、また、三垢が消滅するから浄土に生れるのでしょうか

 という質問がありました。

 三垢というのは三毒と同じですが代表的な3つの煩悩の事で、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚癡(ぐち)という衆生をそこなう代表的な煩悩です。

 「貪欲」というのは「むさぼる」ということですが、自分の心に適う(かなう)ものに愛着し求めるこころです。「瞋恚」は憎しみ怒ることということです。
これは仏道修行の上で最大の障害となる心で、三毒の中では一番重いといわれています。 最後に「愚癡」ですが、人間にある根本的な無知で真実の道理に対して
暗いということです。仏教ではこの無明煩悩こそが人間にとっての根本の問題であるといっています。この三垢、あるいは三毒というのは、私たちを苦しめている原因でもあります。

「貪欲」は”とんよく”と仏教では読みますが、もしかすると”どんよく”と発音した方が馴染みがあるかもしれません。「”どんよく”に生きろ」とか「もっと”どんよく”になれ」
発破をかける時によく使っている言葉でもありますが、これは元来、仏教語であったのが一般化したことによって普段から使われる馴染みのある言葉となりました。

 貪欲は煩悩ですので、自分を煩わし悩ませるものであります。つまり仏道の修行においては邪魔なものであるということですが、”どんよく”と一般的に使われる場合には、意欲を持たせる時などに使われる場合があり、必ずしも悪い意味で使われているわけではありませんが、やはり”どんよく”であってもそれが増大することによって自分が苦しみ悩まなければならなくなるには変わりはありません。
 
 「瞋恚」(しんに)というのはあまり馴染みのない言葉ですが、これは「瞋り、怒り(どちらも”いかり”)」ということです。
「怒る(おこる)」ということでもありますが、私たちは縁に触れさえすればすぐに瞋りがこみ上げてきます。それは、親しい人であろうが他人であろうが自分にとって不都合なことが起こると瞋りが起こります。それによって時には暴力に頼ってでも相手を自分の都合に合わせようとすることもありますが、そのようなことが強く起こればそれだけ自己中心的な思考で物事を捉えているのだと知らされます。では、このような心は一体どこから起こるのか、存覚上人はこのことについて、


「貪欲を生じ瞋恚をおこすことも、そのみなもとをいえば、みな愚痴よりいでたり」


 と仰っておられます。正しい智慧で正しい道理を見ることが出来ず、道理に対してとても暗いのが愚癡という事ですが、その愚癡を元として貪欲と瞋恚が出てくるという事です。
 
 話を戻しまして、今回の質問である「光に遇う者は三垢が消滅して、身意柔軟なり」とありますが、「光」つまり「教え(智慧)」に遇う者は三垢が消滅するとされています。浄土に生れたということであれば三垢は消滅したという事でしょうが、現世においては光に遇っていたとしても三垢が消滅するということはありません。しかし、光に出遇うことによって少しずつ軽減されるという事はあるでしょう。親鸞聖人は『親鸞聖人御消息』に、


「まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。 」

(まずあなた方は、昔は弥陀のお誓いをも知らず阿弥陀仏のみ名を称える事もない身でありましたが、釈迦・弥陀のお導きに促されて、いま弥陀のお誓いを聞きはじめる身となっております。元々は真実の智慧に対して疑う愚かな心のような酒に酔い、貪りと怒りと愚痴の三つの毒を好んでいましたが、仏のお誓いを聞きはじめてからは、愚かで暗い迷いの酔いも少しずつ醒めて、三毒も少しずつ好まなくなり、阿弥陀仏の本願のお薬を常に好む身となっておられます。)


 と仰っています。光に遇えば三垢は少しづつ好まなくなり、本願の薬を好む身になっているということですので三垢が消滅するわけではありません。そこで、質問にある「三垢が消滅するから浄土に生れるのでしょうか」ということですが、ここに関していえば、三垢消滅の有無が阿弥陀仏の浄土に生れるということに関係するのではなく、阿弥陀仏のお誓いになられた本願に対する「疑心」が浄土に生れる妨げとなるので、三垢がある為に浄土に生れることができないという事ではないのです。