2019年2月16日土曜日

『瘤(こぶ)』

 今回のテキストは『一蓮師談合録』からです。


 一蓮院師は、毎朝毎夜、内仏に何か書いたものをとり出してはご懺悔ありた。ある時、信次郎殿にこれをお見せになった。それは『瘤』という字でありた。「信次郎や己は、瘤のようなもので、邪魔にこそなれ、何の役にも立たぬものじゃ」     

 (私「今井昇道師」にいわく。これ一蓮院師が、真に自己の価値を真実に自覚せられ、又表白されたお言葉である。この自覚がやがて他の一面には、「信次郎、阿弥陀様ばかり、ばっかりという事を忘るるなよ」の大教訓、大自覚と顕れたのである。私の心へ出たものは、「阿弥陀様ばかりと思う」心さえ瘤である。これに着するから直ぐこまりて来る。邪魔にこそなれ、役には立たぬ代物じゃ。まして他の凡夫心をやだ。凡夫の心は一切瘤で往生の要に立たぬとすれば、凡夫の思いの寸毫も雑じらぬ、凡夫の力の少しもいらぬ「貴方御一人の御力で助けて戴くより外、道がないじゃないか、貴方ばかりと思う心をたのむなら、貴方ばかりじゃない。唯一向に貴方ばかりが、一心に弥陀をたのめというものじゃ。たのむ心をたのむが私の大瘤だ。この大瘤が知れにゃ一心に弥陀をたのむ心は起こらぬ。余人は知らず、昇道はこの大瘤がいつもはなれぬ。それでいよいよお助けをたのまにゃおられぬ。いよいよ貴方が根機に相応して下された事がひしと身に感ぜらる。邪魔になる大瘤も、本願があればこそ、息のつき場がある。肩が広くなる時もあるというものじゃ)  
 

 生きていると何度も行き詰まることがあります。人それぞれ大小さまざまですが、行き詰まる事のない人生を送る人はまずいません。現代は非常に合理主義的な生き方を各々がしていく時代になっていますが、合理主義的というのは現代では生きて行く上で行き詰まりの少ない生き方のようにみえます。企業でもそうですが合理主義的な経営を行わなれるのが一般的でありましょう。最近ではIOTや人工知能といった言葉を目にするようになりましたが、これらも企業の経営の効率化、生産性の向上などに必要な技術であり、それによって無駄を省き、より収益性の高い企業体質を実現できるようになっています。
 
 家庭の中でも合理化は進み続けています。無駄と思われるものはさっさと捨て、必要なものだけ残していく。一昔前でしたらいつ使うかわからないようなものが物置に山積みになっていたのですが、最近はどうでしょうか、あまりそのような光景を見かけなくなりました。賃貸のマンションでは家具や食器類でさえも備え付けてあるというところもあります。出来るだけシンプルな生き方をするということは生活の合理化で無駄と思われるものを除き、振り回されず、行き詰まりの少ない生活を実現しようとしているのかもしれません。

 合理化の対象はあくまでも自分の主観で決めた「無駄」という概念です。その背景には「自分は正しい」という自己肯定感があるのでしょうが、最近問題となっている児童虐待、DVというものも親など「する側」の考えや行動を自分で肯定した結果として生み出されるものであります。そこには「正しい側」「間違っている側」というようなものが生れますがこれは、合理主義から起こる「有益」「無益」の対立構造に似ています。何れにせよ、自分の考えや判断が「正しい」と思って起きてきますので、他者と衝突するのは当然です。自分の正しさを持つもの同士が違う考えを持てばお互いに自分の正当性を主張します。そうするとぶつかり合いお互いに傷ついていくことになります。それを角砂糖に譬えられた方がおられましたが、衝突しあうとお互いが崩壊していきます。崩壊してくると自分が自分として保てなくなり、当然行き詰まるようになります。
 
 自分の主観は嘘や仮のようなものであってもを真(まこと)と捉え不実なものを真実であると錯覚し、更には自己の主観こそが正しいと認識します。親鸞聖人はそのような凡夫を「邪見驕慢の悪衆生」と仰せられ、その内容を御自身の内にみられた一蓮院師は「瘤(こぶ)」と仰いました。「邪魔にこそなれ、何の役にも立たぬものじゃ」と仰っているのですが、それこそが本当の自己の自覚であると言われております。しかし、その後に今井師が他の一面に於いて「阿弥陀様ばかり、ばっかりという事を忘るるなよ」というところに注目しています。

 このようなお言葉をいただくとつい「阿弥陀様ばかりと思わなければならない」とか「阿弥陀様ばかりとおもうようになるものだ」と自分の方に持ち替えそして自分なりの解釈をし、それを根拠に自分の考えを正当化していきます。今井師は「これに着するから直(す)ぐこまり(困って)てくる。邪魔にこそなれ、役に立たぬ代物じゃ」とご自身のお心を述べられ、 しかし、「昇道はこの大瘤がいつもはなれぬ。」と仰りつつも、だからこそ阿弥陀様の大悲心がひしと身に感じられると仰っています。
 瘤が取れるのものであればすぐにでも取りたい。そうすれば素直に受け止める事が出来る。その事くらいはわかります。ですが、自分の力では到底取ることができないのが私の瘤。それを一蓮院師は「己」と仰ります。自分で引き離せないほどの大瘤も消す事なく、そのままで助ける阿弥陀様のおはたらきは南無阿弥陀仏となり大瘤を取ることの出来ない私に届くようになっております。自分でとれと言われたら忽ち行き詰まりますが、「瘤のままで南無阿弥陀仏を聞いてくれ、必ず助ける」という大悲救済があるからこそ行き詰まりつつも「息のつき場」が与えられてくるであります。

ナンマンダブツ

どうぞご聴聞にお越しください。
お待ちしております。

念佛寺


淡路島:灘黒岩水仙郷にいきました





2019年2月13日水曜日

3月6日の『聞名の会』の変更について

 毎月6日午後7時より『聞名の会』を開催しております。3月は門徒会の本山上山に住職が伴いますので、休会とさせていただきます。
休会分は3月8日午後7時よりとさせていただきます。よろしくお願いいたします。


聞名の会の変更

3月6日 午後7時~  →  3月8日 午後7時


どうぞお間違えなくお越しください。
4月につきましては4月6日の予定となっております。
よろしくお願いいたします。

念佛寺