2019年1月18日金曜日

1月も中旬となりました
 
 阪神淡路大震災から24年目になります。テレビ番組や新聞では特集が組まれたり
阪神間の各地では追悼行事などが行われました。阪神間の小中学校では震災集会などがあり、
震災の記憶を後世に伝えつつ、今後起こるとされている地震や津波に対しての心構えなどを
話し合う機会が設けられました。

 ここ数年、そのような集会は震災直後に比べて半数以下に減少したという事です。
24年経てばその当時集会を運営していた方々も高齢になり、その維持が出来なくなってきているというのが大きな理由だそうですが、どうしても関心が薄れ風化していくという事もあるのだと思います。
 
 私達の関心は変化し続けますが、その多くは自身より起こる「欲」が関係しているものです。
その代表的なもので五欲(色・声・香・味・触 に執着して起こす欲望 又は 財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲 )というものがあります。
 TVのコマーシャルや新聞広告などを見ていますと五欲に関連しているものばかりだと分かりますが、裏を返せば五欲に訴求する事で商品などに対する関心を集める事が出来ると
わかっているということです。そういうものに常に触れる環境に身を置いているわけですから、震災当時には非常に関心を持っていた事でも今ではあまり関心を持てなくなってしまったという事もあるのでしょう。 松並松五郎さんは

「この世がようなったらあかん。もう仏法に離れる」と仰いました。

 人生が順境だと思う事が悪いということではありませんが、何をもって人生を順境と言っているのかを知らなければなりません。
仮に我欲で満たされている人生を順境とするならば、仏教の教えからすると大きな誤りであると言わざるを得ません。

 そして、そのような我欲に満たされている状態を順境だと言っている時には、大事な物事を疎かにしてしまったり、仏教の教えにも耳を貸さないものでもあります。
 お経には国王であった法蔵がその王位を捨て、1人の沙門となったとあります。国王というのは世俗の頂点でもあり世俗の欲を実現する地位にあります。しかし、その地位を自ら捨てたという事は我欲の実現に人生の満足は無いという事ではないでしょうか。
 
お経は真実のさとりの領域から私達をあるべき在り方を示し、呼び覚まし、導いてくださる言葉です。
 我欲煩悩の尽きる事の無い一切の衆生を必ず浄土に生れさせ、安楽なさしめると誓ってくださった言葉が「南無阿弥陀仏」です。
 
 親鸞聖人は阿弥陀様の願いをよくよく案じられて「親鸞一人がため」と仰りました。最後の一人を漏らさず救う為に念佛となって喚び続けているのは、誓願を建てる最初から助かる縁すらない凡夫一人一人に深い関心を寄せ続けてくださる阿弥陀様の御慈悲の顕現であるといえるのです。
 
ナンマンダブツ