2018年9月15日土曜日

12日 念佛座談会
 
 今回のテキストは『松並松五郎語録』より


・東漸寺様「略典の初めに〈万行円備の嘉号は障りを消し疑を除く〉とある。これをどう頂きなさるか」と。人々は聞きながら、念仏もせずに、疑い晴れよう疑い晴れようとしても、疑の晴れる薬を飲まないから、何時までたっても「疑」晴れぬ。


・仏様の邪魔をせぬ事とは、聞く事である。聞く事とは念仏申す事。仏様の御出入りのさまたげをせぬこと。 南無阿弥陀仏


 今回は参加者の質問に「他宗の人の中には浄土真宗の教えがどのようなものであるかという事を学んでいる人もいるが、浄土真宗の人はあまり他宗に目を向けていないようであるが、何故か」というものがありました。なかなか難しい質問ですが、まず浄土真宗には「聖道門」「浄土門」という言葉があります。「聖道門」とは自力の修行によってこの世でさとりを得る法門のことです。「浄土門」というのは聖道門に対して阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生し仏になる法門のことです。親鸞聖人はもともと聖道門の人でした。聖道門の修行は自分の煩悩をコントロールすることが求められます。
 例えば、財産欲や名誉欲、食欲などの五欲や怒りや貪りなどをコントロールするというのですが、これは簡単な事ではありません。むしろ私達の生き方はこれらを増長させながらでしか生きて行けないようになっているものです。親鸞聖人はご自身を「煩悩具足の凡夫」と言い表しました。自身は煩悩が消える事の無い身であるという自覚から、聖道門の法門に自分は向かないということで聖道門の仏教から離れていき、そして、法然聖人の下で念仏の教え、つまり「浄土門」の仏道に出遇われました。このような事がありました。
 
 さて、質問の内容に入りますが、浄土真宗を学ぶ人は先の親鸞聖人のあゆみを学ぶことになります。そうすると、聖道門の教えは凡夫の私には必要ない、出来ない、親鸞聖人のように浄土門の教えでしか私は助からないと考えるようになります。その結果、他宗の教え、つまり聖道門の教えを学ぶ前から「自分には無理だ」と決めつけて切り捨てていくようになっていきます。しかし、親鸞聖人のあゆみにはいつも「私においては」という立場を持っているということがあり、最初から決めつけて切り捨てていくというような事はありませんでした。
 親鸞聖人が聖道門の教えを離れたのは誰かに指示されたわけでもなく、聖人自身が「私においては」というところからの決断であり、浄土の法門に入られるのも「私においては」を抜きにして決断されたようなものではありませんでした。そこに後に学ぶ人との大きな違いがあるように思います。
 
 もう一つ大事な事ですが、聖道門の教えを切り捨てていくという事を簡単にしてしまいがちですが、実は聖道門によって煩悩の生活が知らされるということがあります。例えば「少欲知足:しょうよくちそく」という言葉がありますが、本来そのような生き方をしなければならないのでしょうが、私においては欲多く貪り多く瞋り腹立ちが絶えず、人に迷惑をかけてしか生きて行けずにいます。このような私の生き方を肯定的に捉えないのは少欲知足が聖道門にはあるからでしょう。ですので、聖道門は私には関係の無い事だと初めから決めかかるのではなく、聖道門の生き方が方便として大事な意味を与えてくれるものであるとおもいます。

ナンマンダブツ

今月22日は『念佛寺彼岸会』です。詳しくは電話かHPでご確認ください。
どうぞお参りしご聴聞してください。

念佛寺