2018年7月7日土曜日

2日 念佛座談会
 
今回の念佛座談会は『求法用心集』からです。


・法を聞くのが、聞く事と如来の御助けと別に思はるゝゆゑ、聞いては居れどそれほどに思はれぬと云ふ。淨土真宗の法は直に御助けにあづかるのなり。聞き開くと云ふ。骨折つて聞くと、さてはさうかと思ひとらるゝばかりで、疑ひはるゝと我力でないと知られる。それ故、いつどう聴聞してゐる内に疑ひはるゝかも知れぬ。聞くが直に御助けに預るの故、仰せが私の領解なり。 「我等はたゞ耳に聞く事に思へども、耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり。無耳人に聞く耳を御與へぢや。」(香樹院師)

・「一念の信心になると覚えたので事すます気になる。新に名號の謂を聞いて、疑ひはらすべし。」

・また曰く。「多くの人が、これまで聞きこんだことを信じて居る、まことに大事の處、聴聞といふは、今日ばかり今日ばかりと聞くのぢや。」

・障りにならぬとある御目当の罪悪を苦にし邪魔にいたし、いらぬいらぬと仰せらるゝ有りがたい心をものにし、佛のまいらせて、助かりにかゝらうとするは逆公事である。助かりたい心をおこす故、助かるのでない。助けたいが行届いて助かるのぢや。


 一つ目の法語に「無耳人に聞く耳を御與(おあたえ)へぢや」とあります。
「無耳人」というの仏教の言葉ですが、親鸞聖人は御和讃の中で「浄土をうたがう衆生」を「無眼人・無耳人」と仰っています。


 浄土を疑うと聞いてもなかなか解りにくい事ですが、私たちは簡単に浄土も仏法も信じられるものではありませんし、たとえ信じていると強く思っていても自分勝手な信じ方、自分のご都合に合うような信じ方しか私たちはできません。ですので、仮に「浄土を信じる衆生」であると自分自身を思っていても、実はその中身は「浄土をうたがう衆生」であるという姿を教えてくださっています。

 親鸞聖人がお書きになられた『一念多念文意』には、
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくというふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくというふは、信心をあらはす御のりなり。
 とあります。「本願をききて疑ふこころなきを『聞』といふなり」というのは本願、つまり第十八願に誓われている「われをたのめ、必ずたすける」という仰せを、自分の都合に合わせて聞くのではなく、自分のはからいを交えず、その通りに聞く事を「聞」というのだと仰っています。
 また、そのように本願のおこころの通りに聞くということを「信心」だとも仰っています。これほどまでに親鸞聖人が「聞」という事に注意を払われたのは、本願に適った「聞」ということが、いかに大切な事であるかという事を知らせてくださることと同時に、私たちには本願のおこころをはからいなく聞く力がないという事でもありましょう。それは親鸞聖人だけではなく、先哲方が何度も指摘されるところでもあります。
 
 阿弥陀様は本願のおこころをはからいなく聞く力がない私だからこそ聞く耳を「御與へ(おあたえ)」してまで「必ず助ける」と示してくださっております。阿弥陀様の大悲心は私の自己都合を頼りにしなくても助かるように仕上げてくださっています。仏法を聴聞していても、自分流の聞き方しか出来ない私であると知らせ、そういうものだからお助けの全部を仕上げてくださって与えてくださりました。それがナンマンダブツの名号なのであります。

 「ナンマンダブツ」の御名を聞くとき、摂取不捨のお助けにあずかってるのであります。それを「耳に聞くのが直(ただち)に御法の宝を我身に御與へなり」と香樹院師は示されています。

『求法用心集』は念佛寺HPにも掲載してありますので、是非お味わいください。


ナンマンダブツ


次回は12日です。