2018年3月5日月曜日

3月2日  念佛座談会

3月に入り少し暖かくなってまいりました。
この冬は雪の被害があり各地で大混乱でした。
まずは座談会での語録より


〇 明信寺師の仰せに。善知識の御化導を御註文の如く思い、教の如くならんとしても、それはなれぬ。喩えば紙の船や形を折って小供に与える時は、暫く眺めておって直ぐ解く。やがて元の如く折らんとするも出来ゆえ泣き出す。今もその如く仰せの如くならんとするも金輪なれぬ。 ただ仰せのままを聞くばかり。 

〇 姑が嫁に問う。「私を実の親と思うか」と。心にそう思わずとも嫁は「実の母の様に思います」と、答えるに違いない。処が実母が「私を親と思うか」と、若し問うた場合「そんなこと知らん」と答えても実の親子は何ともない。嫁と姑なら大変なことになる。思わねばならぬと思うだけが浅い。へだたりがある、垣根がある。 南無阿弥陀仏   『松並松五郎念佛語録』


 一つ目に「明信寺師の仰せ」とありますが、この方は岐阜の農家の生まれで香樹院講師と出遇った事がきっかけとなり出家された方です。その方の言葉です。

 二つ目は松並松五郎さん語録からです。
 どちらも喩えがわかりやすいですね。
 
 ここでは「こうせねばならぬ」や「思わねばならない」という事が問題になっています。仏教の本を読んだり偉い先生のすばらしい体験や境地を聞くと「あのようにならないと」「先生のように思わなければ」と何か信仰条件として思うようになります。
 
 しかし、それぞれ一人一人の業が異なるのでなかなか先生と同じように思う事や感じる事は出来ないものです。たとえそのような心を作り上げたとしてもすぐに流れ去ってしまいます。そのあたりは「教の如くならんとしても、それはなれぬ」ということでありましょう。そもそも阿弥陀様はそのような事を要求しているわけではありません。寧ろその作り上げた心が教えを素直に聞き受ける事の障碍となるものです。

 ですので、そのような心を頼りとしたり作り上げるのではなく、ただ阿弥陀様の仰せを仰せのまま聞くばかり、称えるままでたすけると阿弥陀様の慈悲をそのまま聞くばかり。こちら側の作り心は少しも必要ない事であります。 

 ナンマンダブツ

次回の念仏座談会は12日です。