2017年9月17日日曜日

12日 念佛座談会

今回のテキストは「松並語録」です。

「唯念佛して弥陀に助けられまいらすべし」と。
 この唯は、唯でも、唯ならぬ唯であります。私等の唯は軽い。唯で念佛さえ申して居ればよい様に思うて居るが、そうではない。一声一声を聞け。唯これ一つ、助けられる道は唯これだけとのお心。
 二十年の修行も、地位も、学問も、知恵も、何もかも総て擲(なげう)ったお心、お姿が唯というお心。罪も、悪業も何もかも、許されたお言葉が、唯と申されたお心、お姿でしょう。唯とは、総てを説き表わされた一切経が、この唯の中に入っております。如来様の全体が、入ってあること。
 如来様の御心を頂いて、頂きぬかねば、唯念仏してと言う言葉は出ぬ。唯ともうされし御開山様がひざまずいてござる姿が目に見える様な気が致します。我々は御開山様の、御言葉をそのまま頂くべきである。こうだから有難いと言うは、まだ底がある。何が何だか判らねどたのもしいのです。


最後の方に、「こうだから有難い」とあります。
「こうだから~だ」と、自分の考えや理由などを先に述べて結論を出していますが、このような聞き方に対して松並師は「まだ底がある」と仰っています。。
 
 仏法を聴聞する際にこのような聞き方になると少し問題が出てきます。
「こうだから有難い」というのは、「こうだから」ということが無い限り有難くないという事でもあります。何か自分にピッタリくる条件が無いと有難くないというというのは、自分好みの仏法だけしか受け取らなかったり、時には自分の解釈によって教えの内容を自分好みに歪めてから受け取るという場合もあります。
 そうすれば確かに自分なりに受け取るということは出来るのでしょうが、自分で自分の考えに納得したに過ぎません。親鸞聖人は『一念多念文意』に

きくというは、本願をききて疑うこころなきを「聞」というなり。

と仰っています。
「聞く」そのままが信心となるような「聞」は聞いたことに対して自分の先入観や考えなどの夾雑物を挟まないということです。自分の考えで固めるのではなく、また、疑いをもって聞くのではなく、御言葉をその通りに受け入れるということが聞くということなのです。聞けなくしているのが親鸞聖人の場合ですと二十年来の修行の成果も地位も学問も智慧も何もかも総てということになるのでしょうが、何も親鸞聖人個人の話ではなくて、仏法を聴聞している私自身の問題であります。
 
 日常生活で非常に役に立つ学問や智慧、経験というものが、仏法聴聞においては邪魔になりやすいものです。というのもそれらを根拠とし教えを自分色に変えて自分が納得できる形に自分が仕上げて受け入れようとしてしまいます。これでは仏法を頂いたとはいえません。二十年の修行や学問を抛つというのは、お助けに対して自分の考えや能力にもはや何も見出せなくなる、自分という者が何の力も持ち合わせていないという自己に対する信頼感の喪失でもあります。

 そのような自力を信頼する迷妄のこころを破り、必ず浄土に生れさせるという如来の願心が一声一声の言葉となって私の口に届き現れるのは、唯これ一つが汝を必ず助けるとの阿弥陀仏の大悲心のあらわれであります。ただ如来様の声を聞け、一声一声聞け、唯この一つこの一声が仏法全体、如来様全体なのであります。
  
ナンマンダブツ


今月22日は「秋 彼岸会」となります。
どうぞご聴聞してください。