2017年7月16日日曜日

12日 念佛座談会

今回は『香樹院徳龍師』の言葉より、


・如来の勅命一つが、すべてのすべてじゃ。勅命を聞いてからの用事は、助けられた御大恩を喜ぶばかり。

・謂われを聞いてから信ずるのではない。お助けの謂われこそ、金剛堅固の私の信心であることを聞くのである。

・ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば、誰でもお慈悲はとどくのである。


「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」とありますが、私たちが自身の心を観(み)るという事は果たして出来うるのでしょうか。世間では、自分の心は自分がよく知っているものであり、他でもない我が心を自分自身以外の誰かが自身よりも知っているなどということは決してないと思っています。更には我が心を自制出来るものとして捉えているものです。
 
 しかし、縁さえあれば瞋り、腹立ち、嫉み、妬みというような心が自分の想定を超えて突如として沸き起こってくるものでどうにもなりません。後になって後悔をしたり詫びたりという大変な事態になることもしばしばあります。その時は、申し訳ない気持ちで一杯になりもしますが、時間が経てばいつもの私に戻っているものです。
 
 そのような無思慮無自覚な私たちに「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」と、香樹院師は仰っているわけですが、決して私たちの主観に於いて知る事が出来ると思われているわけではありません。阿弥陀仏の「必ず助ける」との本願のお謂われを聞く中に、決して助からざる者だと照らし出され、そのような者だから必ず助けると願われ建てられた阿弥陀仏の本願が、大悲招喚の声の仏となって私の口からナンマンダブツと出でて、その大悲の御声を聞いてくれよとの思し召しがそこのあるのです。

一声一声
如来のお出まし
一声一声
浄土真宗
     (木村無相)
 
ナンマンダブツ