2017年7月3日月曜日

7月2日 念佛座談会

今回のテキスト「木村無相さんの便り」・松原致遠師「ただ念佛して」より、


〇ただこの、他力廻向の如来の大悲心、即ち、信心の智慧、佛智によってのみ、無い無いづくしの「我が機」、逆謗センダイ、無佛法、無信の「我が機」ということが思いしらされるのであって、いつの間にか、我が、煩悩妄念の意業の奥に、背後に、主体的に、忍び込みたまいし、如来の願心、「称我名字、若不生者不取正覚」の如来の大慈、大悲心、佛智のホカに、ナニか、「信心」というようなモノガラがあるのではなくて、「信心」とは、ワレラが、愚悪、無信の、無佛法の自性、本性の、意(ココロ)の背後というか、奥というか、にいつの間にか忍び込みたもうて、「我が堕ちる実機」のスガタをしみじみと、明らかに、知らしめたまい、かかるワレラは、如来廻向のただ念佛よりほかに、出離の道はないとつくづく、しみじみ、思い知らされたもうを、「信心」と名づけるのであって、ウスカワマンジュウの中身は、アンコであるように、「他力信心、他力信心」といっている「真実信心」の中身は、「アンコ」は、如来の助けんとおぼしめしたちける本願、願心」のことなのですよ。(木村無相)

〇称我名字の仰せのままに、名号を称念することに於て、最もありがたく感ぜらるることは、「すくひ」を求める必要がなくなること、従って救済者を探し求める必要がなくなることである。(松原致遠)

〇念佛一つとは言っても、「念佛する事ではない。「我が名を称えよ」の仰せが聞こえて来れば、その仰せ出さるる願心の内容たる自己のすがた、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界を自らの内に発見するのである。このとき、その照らすものの前にひれ伏して、おのづから念佛まをさんとおもひたつこころ(自らのはからひをすてる心)が起こるのである。ここにこそ、まことに仰せ一つに、ありあまるよろこびを感ずるのである。(松原致遠)


 浄土真宗は「阿弥陀様のひとり働き」「他力の信心」というが、お寺にも来ない、佛様の話も聞かない、念佛も申さない人が突然「信心いただきました」とはまずなりません。やはり、念佛聞法するという経験が一つありますが、あまりそこに立ち入った話を聞くことがありません。木村無相さんはそのような事をお手紙の中の一部で記されているので、それを紹介させていただきました。
 
 木村さんの言葉に「しみじみ」や「いつの間にか」とあります。ナムアミダブツを聞く一つにおさまるのですが、称えては聞き、聞いては称えるところに如来の大悲心がしみ込んでくるというお心でありましょう。「お念佛」を軽く考え、論理的な話に重きを置くような風潮がありますが、冷たい論理で私たちは助かりませんし、論理は思考の内にある為に自力と言わざるを得ません。木村さんの詩に、


道がある 道がある    
たった一つの道がある    
ただ念仏の道がある    
極重悪人唯称仏
とあります。


 称えさせ、聞かせ、信じさせる道をつけて下さったのが阿弥陀様のご本願であります。もしかするとお寺にも来ず、仏法をも聞かず、お念佛も申さない方で信心をいただくという方がおられるかもしれませんが、やはり「我が名を称えよ」に込められたる如来様の大悲心をしみじみ聞かせて頂くところに温かいものを仄かに感じさせられるのであります。

ナンマンダブツ