2017年6月11日日曜日

一蓮院師秀存談合録に聞く

 私たちは自己中心的な愚痴によって自分の好きな事、都合の良い事などに対して貪欲(とんよく:むさぼり)を起し、ひたすら貪り求めます。
 それとは反対に自分の都合に合わなくなると瞋恚(しんに:いかり)を起し、怒り腹立ち憎しみに振り回されるようになります。その結果として他者を傷つけ苦しめるのですが、同時に自分自身も傷ついているものです。

 その様な経験は誰しもあるものですが、自分が引き起こしているという事実に対しては、その都合の悪さから直視しようとしません。しかも、その性質は死ぬその時まで続き、決して失ったり無くなるようなものではなく常に私たちから離れるものではありません。
 そのような姿を親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と仰せられました。『一念多念文意』に


「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」


 と言われています。『一念多念文意』は親鸞聖人八十五歳の時に著されたものです。八十五歳になられて体の衰えを感じておられたに違いないでしょうが、なお煩悩の盛んなる事も感じておられたようです。
 私たちの感覚では年齢を重ねていくと人間性が整えられて模範のような生き方が出来るように思いますがそうではなく、模範的な人であろうが無かろうが腹を立てたり嫉んだりする事は死のその時まで続くものであると仰っています。
 このお言葉から愛欲に溺れ瞋恚の炎に身を焦がしながら生きて行かざるを得ない我が身を深く慚愧された聖人の御心が感じられてくるものであります。


「五劫の御思案も衆生のため、兆載永々劫のご修行も凡夫のためと、一筋にお勤め下されたは、凡夫を凡夫のままに助けようとの思し召し一つのためじゃ。深甚と云うも一心一向と云うも、この仏の「そのまま助ける」の思し召し。唯衆生を一筋に助けたいの思し召しを聞くよりほかはない。御当流は他力じゃからには、仏の御心の外に、凡夫に一心もなけりゃ、信心もないと云うものじゃ。」(一蓮院秀存談合録)


 煩悩の盛んな私たちから出てくる願いは自身を焼き苦しめ悩ますものとなります。その願いが成就する世界を「火宅」(かたく)とよび、燃え盛った家に平気な顔をして居座っているのが煩悩具足の私たちであります。
 その姿を憐み悲しみ「唯(ただ)衆生を一筋に助けたい」という如来の大悲心のみ声が火宅に居る事実を知らせ、自身の迷妄を解き放ち、自分の願いを叶える人生がどれほど虚しい事であるかを知らせ、如来の願いに適う人生こそが本当の安住と豊かさを得る最勝の道であるという事を示されます。
 
 「ナンマンダブツ」は阿弥陀仏が名となり声となって喚びつづけ、「ただ一筋に助けたい」という切なる願いが「かたち」となって顕現しているものです。
 ナンマンダブツの一声が阿弥陀仏のかたちでありナンマンダブツの一声が大悲心の顕現です。ナンマンダブツを聞くということはナンマンダブツの「仏」に遇う事であります。「このように思ったら良い」やら「そのように思うものですね」というようなことではなく、ナンマンダブツを聞くがお助けを聞いているという事なのです。

ナンマンダブツ