2017年5月14日日曜日

念佛座談会

12日念佛座談会を行いました。
今日はご参加の方から、

「先方が毒を吹きかけようとも、こちらに解毒剤があるのだから何も案ずることも行き詰まる事もない。」

という言葉にみなさんどうお感じでしょうか?という事で、参加者の方々に感ずるところを話していただきました。
 ちなみにこの言葉は藤並天香さんの『人を継ぐ人』に収められているとのことです。

 藤並天香さんは多田鼎師を仰いでおられた方で、戦争反対を声高に叫んだ事によって特別高等警察に連行され片耳が聞こえなくなるような仕打ちを受けたという方です。

僧侶でしたが生涯寺に住すことなく生活は困窮を極めていたのですが、多田師同様社会的弱者に対して真っ先に行動を起こされ、厳しい状況の中でも如来の中に生きた人であったようです。
 この言葉を当時の藤並さんの心情ということではなく「今」私においてどのように受け取ったのか、そのことをそれぞれ話していただきました。

今日のテキストは『松並松五郎語録』から、少々長めです。

二十年悪い奴と知っても、吾々の知れたのは浅信と言うて、浅い信である。仏様は久遠劫来より三世に渡って、助からざる者と、見込んで助ける南無阿弥陀仏に成り給う。機と法とが一つの南無阿弥陀仏を頂けば、ある片面に我が機を照らし出され、ある片面にその者この機を助ける法を照らし出す。機(助からぬ)と法(助ける)、離すに離されぬ。南無阿弥陀仏を判り易く、二つに分けて御教化下されたのが、二種深信であります。私や、あなたが如何に知れたとて浅信、あさい信です。仏様は過去、現在、未来あい通じて、これから造る罪まで見抜いて、助からざる者と、仏様が、悪業のかたまりと見抜かれた事を深信と言うて、深い信である。其の者を救う、これが法の深信です。それが南無阿弥陀仏になりまします。南無阿弥陀仏を頂けば、頂くとは念仏申すこと、称えること、称えるままが悪い奴、助からぬ私やと言うている事でもあり(機の深信)、其の者を助けると言う呼び声でもあるのです(法の深信)。亦有り難うと歓喜でもあるのです。お礼にもなるのです。頼みもせぬに、私の知らない昔に、私の助けられる南無阿弥陀仏に成りまします、声の仏にてまします。生まれたままを助けるとある南無阿弥陀仏なるに。あなたに苦労させる、かける仏でない。苦労は親がして成就したもう南無阿弥陀仏を頂くだけ、称えるだけ、頂くだけ。呼び声なるが故に、口に現れ給う念仏を聞くだけ。

 私の口に現れ給う念仏のいわれを聞く、つまり「仏願の生起本末」を聞くという事ですが、こちらの松並さんの言葉にはそれが簡潔に述べられています。
 よくわからない方もおられるでしょうが、「わかった」となるのも怪しい場合があります。わかならければわからないまま口から現れるお念仏の声に親しみ、そのお念仏の云われを聞くところに真宗の聞法はあります。 

 ナンマンダブツ