2017年2月10日金曜日

求法用心集を味わう


「ぼんうは決定して沈むなり。佛は決定して助け給ふなり。盡未來際つきぬけ堕ちゆく身、久遠劫來つきぬけ助ける助けるの大願心。どちらも無限無際、恐ろしいとも頼母しいとも、願力回向、他力回向なればこそ、たゞ本願力を拝む外なし。」(求法用心集)




人間は多くの事を進展させてきました。
生活環境や先端技術など多方面においてその進歩がみ見られ、
50年ほど前には考えられないような事を先進世界の人は当たり前にやってのけるようになっています。


安心や安全という事で言えば、例えば水道の蛇口から出てくる水を取ってみても昔と比べれば安心して飲むことが出来ます。
また、住宅は機能的な安全設計がなされていたり、その配慮も格段にされるようになりました。
わたしたちを取り巻く環境の多くの事柄に進展がみられるわけですが、それでもわたしたちは決して満足しているわけではありません。
満足出来ない故に発展し続ける事に光も見出そうとしているのでしょうが、何を満足させたら良いのかさえ知らずにいます。



「一つには決定して深く、『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、嚝劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし』と信ず」(散善義)



われらは永劫に流転つづけ、出離の縁すらないという事を深く受け止めなければなりません。
何の根拠を持たない安心感に満足している平生が如何に妄想妄念に沈んでいるか、どれほど長い時を流転しつづけ業苦を受けてきたか、われらの眼は煩悩が障りとなり、我が身の有様をありのままに観る事が出来ない故に、この言葉が簡単に響きはしません。

 しかし、法蔵菩薩が一切の衆生を救うに仮令この身を苦しみの中に沈め永劫に浮き上がることが出来なかったとしても、最後の一人まで救うまではそこに留まり続けるとの大悲の願心を起された背景を知る時、一切衆生が罪悪生死の苦海に沈輪しているのだとその悲しみに於いて知らされてきます。


罪業の苦海に沈み続けるわれらを、最後の一人まで「必ず助ける」誓った法蔵菩薩。
われらの罪業も阿弥陀仏の大願心もどちらも底なしで無限無際であり、われらを限りなく摂取し決して捨てないはたらきを「阿弥陀(無量寿無量光」と名付けられ、名となり声となってわれらに届き続けています。


「ナンマンダブツ」口に現れ出ている願力回向された本願の行は、常に沈み出離の縁なきわれら一切衆生を救済せねばおけない如来の大悲心の具体的顕現であると知らされ、摂取不捨の大悲心を疑いなく受けとる信心において浄土に生まれると約束されているのであります。