2018年2月16日金曜日

12日 念佛座談会
 
 念佛寺の座談会は先哲の語録などを味わって話し合いをしたり、日ごろの御聴聞で出てくる疑問などをお互いに考えてみるということをします。
 今回は参加者の方から出てきた質問をもとにお互いに話し合ってみたのですが、よくある質問が出てきたので取り上げてみます。

質問に「お念仏を称えよといわれるが、理解しないまま称えていいものか、理解して称えるものなのかどちらでしょうか。私はお念佛を理解して称える方がよいとおもうのですが・・・」

 とありました。
 同じような事で「お念仏にはどのような意味があるのですか?」とか「どのような気持ちでお念仏すればよいですか?」と聞かれることがあります。中には「感謝の気持ちでお念仏しています」や「” 今日もよろしくお願いします ” の気持ちで毎朝お念仏をしています」という方もおられます。
 お念仏とは「ナムアミダブツ」の事ですが、あまりにも身近すぎて自分でわかったような気になっていたり、自分の気持ち次第で唱えるものだと考えている方も多いようです。このような場合は浄土真宗がどのようなものであるかをあまり知らない方が多いのではないかと感じます。 
 この質問の方も浄土真宗の話を聞き始めたばかりだと想像されるかもしれませんが、実際はよくご聴聞しておられる方です。実はよくご聴聞されるからこそ真剣な問題としてこのような質問がでてくるのです。


 さて、話をもどしますと、「お念仏を称える」という事はもともと法蔵菩薩がどうすれば一切衆生をもらさず救えるかという事を考えた時に称名念佛を取り上げられました。私たちが何故ナンマンダブツを称えるのか、どんな気持ちで称えるか、という疑問を持つよりも前に、何故法蔵菩薩がナンマンダブツを選び取って称えるばかりでたすけると仰ったのかを聞かなくてはならないでしょう。そのこと無しに何故称えるのか、どのような意味があるのかということを自分で考えたり人に尋ねたりしてもなかなか納得できるような答えを得ることはできません。

 人間の心には真実はありません。その真実の無い者を仏にするにはどうすればよいか。法蔵菩薩はご自身で修行され、その人、その業、その全部を引き受けて救いの因を全部法蔵菩薩が仕上げて下さりました。それがナンマンダブツです。ナンマンダブツを口先だけで称えるお念仏は、自分の心がどうかという事に何の用もありません。ただ念仏するばかりで助ける、これがどう聞こえるかというと「助ける」。助けるからまかせてくれよというのが阿弥陀様の慈悲の言葉としてあります。それがナムアミダブツなのです。

ナンマンダブツ

次回は3月2日です。
少しは寒さが和ぎますかね。
今回は写真を保存しているパソコンが故障中の為、写真はありません・・・。

2018年2月6日火曜日

2日 念佛座談会

 寒い日が続きますね。
今回は『松並松五郎念佛語録』より


〇黒野の小里さん宅に詣り、帰りに私と大和へお越し下さった。夏の盛りでした。車中で雨が降り出した。小里氏、こまったこまったと連発。それに対し、自然にまかせておけばよろしいやないか、家を出る時雨模様であるのに傘を持たなんだのならともかく、あのとき晴天でしょう。雨が降ったら濡れたらよいのや。それを濡れまいとするから苦になる。下車する頃には雨が上がって晴天です。濡れたとてあなたに着替えて頂く衣類はあります。こまったこまったと云う口で念仏聞きましょう、と。大和え着けば晴天。それそれ見なさいな、何にもならぬ計らいは心の苦です。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。帰られてから手紙頂きました。あんな無理なこと、もう絶交だと腹の中で思っていましたが、まことまこと有り難うございます、と。私もあやまりの便りを出しました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


〇・・・日々の所作が如来様の御計なれば、称えられる時も、その時の流れに、流れにまかせて・・・
一遍上人の歌に
 仏こそ いのちと身との あるじなれ 我が我ならぬ こころ振る舞い


 松並さんが黒野にある小里さんのお宅にお説教に赴き、その帰りに小里さんと一緒に大和(松並さんの自宅)まで帰ってきた時の話です。小里さんの家を出る時は晴天で、電車の車中で雨が降り出し小里さんが「こまったこまった」と連発していたのですが、大和の駅で下車した時には晴天だったということです。こういう事はよくありますね。「あの時やっておけばよかった」という事がなんとも多い生き方をしているものです。

 しかし、ひとたび電車に乗ってしまえば、どうする事もできません。どうすることもできないとわかっている事でさえも何とかしたいと計らい、どうにもならない事実を受け止めきれずに苦しんでしまいます。「雨が降ったら濡れたらよいのや。それを濡れまいとするから苦になる」つまり因縁に随って生きて行くしかない、と続いていくわけですが、ここまではよくあるような話でもあります。
 しかし、「こまったこまったと云う口で念仏聞きましょう」となるわけです。ここが世間的な解決方法とは少し違うところではないでしょうか。しかも「念仏〝聞きましょう″」と。困ったから念仏唱えて何とかしよう、ではありませんね。困るのが人生です。その困る人生と念仏がどのように結びついているのでしょうか。そこを尋ねるのがご聴聞でありましょう。

ナンマンダブツ

次回に念佛座談会は2月12日です。




2018年1月15日月曜日

寺報の更新をいたしました

 新年最初の更新をいたしました。

 昨年の6月より滞っておりましたお寺の新聞を12月までアップロードしたしましたので、是非とも目を通してください。寺報のHP更新がいつも遅いので申し訳なく思っておりますが、寺報自体は毎月発行しております。
 
 次に音声法話も更新いたしております。
今回は昨年の念佛寺報恩講での住職による法話です。
こちらもどうぞお聞きになってください。

ブログの更新も滞り気味ですが、本年もよろしくお願い申し上げます。

 念佛寺
 





2017年12月28日木曜日

今年の全日程終了いたしました。
 
22日に報恩講も終わり、念佛寺の法座は総て終了いたしました。

 今年は報恩講でお話しをいただいた瓜生崇先生に「仏に遇うまで」を電子書籍化していただきました。
 お忙しい中での電子化で大変な事ではなかったかと思いますが、非常に読みやすく、何と言いましてもあの手軽さは電子書籍化でないと実現できないものではないかと思います。読んで居られない方は是非読んでいただき、読まれた方は他の電子書籍も読まれてみては如何かとおもいます。
 
  年間通じての法座は、御聖教や語録をテキストにあじわっていきましたが、難しいものも多かったのではないかとおもいます。
しかし、多くの質問もあり毎回熱気のこもった法座であったとおもいます。


 来年は6日の「聖典学習会」(午後7時)からです。2日の念佛座談会はありませんのでご注意ください。
念佛座談会は12日からです。

因みに住職は30日まで留守をしております。
よろしくおねがいします。

ナンマンダブツ
 
  念佛寺

瓜生先生

2017年12月8日金曜日

12月 2日 念佛座談会

寒くなりましたね。
今回は松並松五郎さんの歌からです。

・ほれられて 南無阿弥陀仏と 聞けよかし こざかし顔は 弥陀にうときぞ

・聞き分けし 言の葉末を うちはなれ 南無阿弥陀仏と 称え皆人

 今回は座談会の冒頭で松並さんを紹介している新聞記事について住職がふれておりました。
1979年1月の読売新聞に松並さんを紹介した記事があるという事ですが、「著名な妙好人(みょうこうにん)は昭和の初期に絶えたと思われていたが、その系譜は現在も松並氏につづている」との趣旨の記事が掲載されているとのことです。

 「妙好人」というのは浄土真宗の篤信者で鈴木大拙師によって広く知られるようになりました。鈴木大拙師も松並さんを紹介しようとされたそうですが、松並さんはお断りになられたという事です。
 テキストは松並さんの歌ですが、表現が少し難しいかもしれませんね。

1首目の「こざかし顔」、2首目「聞き分けし」というところが問題になってくるところではないでしょうか。
 阿弥陀様の仰せを自分の計らい心なく、そのままその通り聞くということが「信」ということになるのですが、どうしても自分の計らい心が邪魔をしてしまいます。何ごとも自分で解釈しなければどうも収まりがつかないというか、しっくりこないような思いがするものです。これは何も特殊な事ではなくて、何かを得る時には自分の考えや理解を必要とするものです。しかし、その事が阿弥陀様の仰せを素直に聞けない原因でもあります。親鸞聖人は『末燈鈔』で、

摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候ふ。浄土へ往生するまでは不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにて発起せしめたまひ候ふとみえて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべしとみえ候ふなり。ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。あなかしこ、あなかしこ。
 と仰っておられます。


 最後の方に「ともかく行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。」とあります。こちらのはからいは”ちりばかりも”いらず、自分に理解できず、わからないままに聞かせて頂くばかりで助けるまで仕上げて下さっています。

 聞き分け知り分けは一つも必要なく、私が信じるということにも用がなくなります。「こざかし顔」や「聞き分け」は私がどうにかなる出来るような事ではありません。その私だからこそナムアミダブツとなって私に届いてくださる一声一声が阿弥陀様の大悲の御声であると聞かせていただくばかりであります。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

次回が12日です。
念佛寺報恩講の案内 → こちら



2017年11月25日土曜日


念佛寺 報恩講 のご案内
 
 報恩講とは宗祖親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要で、念佛寺に於きましては毎年12月22日に勤めております。

  親鸞聖人のいただかれた念佛往生の教えに遇い、自らの帰依処を教えていただいた御恩に報謝し、いよいよ聞思深めていく場でもあります。
 真宗門徒にとりまして大切な法要です。お参りください。

御講師は昨年に引き続きまして瓜生崇先生にお越しいただく事となっております。

 日時 : 12月22日 (金)

 時間 : 午前10時~  お勤め 後 住職法話
            
            休憩
    
               午後 2時~   お勤め 後 御講師法話


 持ち物: お念珠 (お勤めの本はこちらで用意しております)

 諸事項:  駐車場はありませんのでなるべく公共交通機関をご利用になられるか周辺パーキング
       を利用ください。 
  
 念佛寺報恩講 御講師 案内
 東近江市 真宗大谷派玄照寺 瓜生崇先生



2017年11月15日水曜日

12日 念佛座談会

〇播州の老婆二人後生が苦になり、居ても居られずとて同心して御旧跡回りを思ひ立ち、先づ御本廟に詣し、京より來りぬ。四五日滞在聴聞して東に向ひぬ。七十日も過ぎて、或日の夕方、綿の様になりて我寺に着きぬ。さて曰く。「長い間御旧跡を巡拝し、廣く知識を尋ね歩いたが、なんでもなかつた。体はぐたぐたに疲勞てくる。持つてゐた財布は空になる。もうもうこの私はどうしてみても助からぬ、生れながらの盲人であつたと、今度は本復させてもらひました。」

〇法を聞くのが、聞く事と如来の御助けと別に思はるゝゆゑ、聞いては居れどそれほどに思はれぬと云ふ。淨土真宗の法は直に御助けにあづかるのなり。聞き開くと云ふ。骨折つて聞くと、さてはさうかと思ひとらるゝばかりで、疑ひはるゝと我力でないと知られる。それ故、いつどう聴聞してゐる内に疑ひはるゝかも知れぬ。聞くが直に御助けに預るの故、仰せが私の領解なり。 「我等はたゞ耳に聞く事に思へども、耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり。無耳人に聞く耳を御與へぢや。」(師)
     
〇一日(あるひ)等覚寺を京都の寓に訪ふ。師曰く。 「聞くばかり。聞いて向うにあるものを取り込むやうに思ふは違ひなり。聞くばつかりと云ふことまことに尊い」 と歸路太助隠居の處に立ち寄り、此事を語りたれば、太助大いに驚き、 「えらいことを聞いてきなされたきなされた、私は今初めてゞある」とて、非常に喜ばる。衲惟うに、三十年來等覚寺に詣でゝ聴聞してゐる太助が、今初めてぢやと尊み喜ぶ相をみて、「信の上は何時もめづらしく初めたるやうにあるべきなり」とは、このことかと更に深く思ひつけり。      


今回は『求法用心集』より。

「聞くばかり。聞いて向うにあるものを取り込むやうに思ふは違ひなり。聞くばつかりと云ふことまことに尊い」

 ここで言う「聞いて向こうにあるものを取り込む」とは、教えを自分で解釈し理解し自分の考えを持つということです。教えを”掴む”ともいいます。
 
よくあるのですが、有名な先生のご法話などを聞いていると、その先生の意見などを聞き、自分で理解することが出来た事で教えを聞けたと思ったりします。「阿弥陀様の仰せ」と「先生の意見」を聞き分ける事が出来るのであれば何も問題はないのですが、先生の意見を阿弥陀様の仰せと聞くならば、少し問題があるように思います。
 先の師の言葉にもありますが、「耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり」とあります。私に”直”に届いている阿弥陀様の仰せを聞くのが、「聞くばかり」ということで、いくら法座であっても先生の聞いた後の意見を聞き、自分で理解出来たということになるのであれば、それは聞いたという事にはなりません。先生の言葉ばかり追いかけて何十年聴聞を重ねても、結局のところ自分の解釈で握りしめた苦しい論理しか残りません。
佐々木蓮麿師が

「仰せが仏法である。聞いた心に用事なし」

と仰ったということです。
先生自身の領解はどちらでも良いのです。「~先生がこうおっしゃっていた。」などという事はどちらでも良い事です。

阿弥陀様の仰せ、私に直に届いている仰せ、それが仏法です。
私がどのように理解しようが感じようが、そんな事は何もいりません。
まして先生がどう領解しているかなど全く関係のない事です。

阿弥陀様はただ「必ず助ける」と仰せられているわけです。
阿弥陀様はどう仰っておられますか?

掴んでいるものが無ければ、仰せが私の領解となるのです。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

※引用文に現代的に不適切な言葉が用いられておりますが、著者に配慮しそのまま転載しております。