2018年8月8日水曜日

更新のお知らせ

更新のお知らせとご案内

 猛暑が続いておりますね。いかがお過ごしでしょうか。
夏の甲子園が開催されております。甲子園球場には「阪神甲子園」駅が最寄りなのですが、念佛寺の近くの「JR甲子園口」も多くの高校野球ファンが利用されているようです。高校野球の観戦は、私が子供の頃は第一試合から最終戦までずっと観戦できましたが、3年前、観戦に行った際には真昼間という事もあってか、3回ももたず帰りました。暑さのせいか年のせいかはわかりませんが、昔のようにはいかなくなりました。高校球児の方々も昔のようにはいかないので、暑さには十分に気を付けてプレーしていただきたいものであります。

 さて、今回は念佛寺HP「お寺の新聞」と「音声法話」を更新いたしました。
「お寺の新聞」はなかなか更新できず、一度に3か月分、「音声法話」は2つ追加いたしました。
お気づきの点やご質問などがございましたら、ご連絡ください。

念佛寺

念佛寺「盂蘭盆会」が10日に執り行われます。


日にち: 8月10日
時間 : 午後 2時~午後 4時
持ち物: お念珠  
     
     お勤めの本は用意します 



※大変暑い日であると予想されますので、ご聴聞の際は
熱中症などに十分ご注意してください。



8月の日程に関して

 
8月はHPに掲載もしておりますが、以下の通りです。

 2日   念佛座談会   午後3時~5時半
 6日   聖典講座    午後7時~9時
 10日  盂蘭盆会    午後2時~4時


12日と18日と22日は休会です。
よろしくお願いします。

 念佛寺



2018年7月18日水曜日

念佛寺『盂蘭盆会』のご案内と8月の日程 
 
 全国的に非常に厳しい暑さが続いております。
また、先の豪雨で被災した方々にとってこの暑さは
生活再建を困難なものとしております。
早期の回復を願うばかりであります。


 さて、今年も念佛寺『盂蘭盆会(うらぼんえ=お盆)』を執り行います。
生きていると多くの出会いがありますが、同時に多くの別れがあります。
私自身も多くの人と別れてきました。皆さんも多くの人と別れてきた事でしょう。


私自身も別れていく存在であります。
別れた人はどうなっているのか。
そして私はどうなるのか。

 自分で考え、そして決定するのだと言いたいところですが、

実は何も知らず誰も教えてはくれません。
 ですから、お寺に参り仏法を聞くのであります。これを「聴聞(ちょうもん)」と言い、これが真宗門徒にとっての『盂蘭盆会』であります。

大変暑い中ですが、どうぞお寺に参りご聴聞ください。


     記

日にち: 8月10日
時間 : 午後 2時~午後 4時
持ち物: お念珠  
     
     お勤めの本は用意します 



※大変暑い日であると予想されますので、ご聴聞の際は
熱中症などに十分ご注意してください。



8月の日程に関して

 
8月はHPに掲載もしておりますが、以下の通りです。

 2日   念佛座談会   午後3時~5時半
 6日   聖典講座    午後7時~9時
 10日  盂蘭盆会    午後2時~4時


12日と18日と22日は休会です。
よろしくお願いします。

 念佛寺
 



2018年7月7日土曜日

2日 念佛座談会
 
今回の念佛座談会は『求法用心集』からです。


・法を聞くのが、聞く事と如来の御助けと別に思はるゝゆゑ、聞いては居れどそれほどに思はれぬと云ふ。淨土真宗の法は直に御助けにあづかるのなり。聞き開くと云ふ。骨折つて聞くと、さてはさうかと思ひとらるゝばかりで、疑ひはるゝと我力でないと知られる。それ故、いつどう聴聞してゐる内に疑ひはるゝかも知れぬ。聞くが直に御助けに預るの故、仰せが私の領解なり。 「我等はたゞ耳に聞く事に思へども、耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり。無耳人に聞く耳を御與へぢや。」(香樹院師)

・「一念の信心になると覚えたので事すます気になる。新に名號の謂を聞いて、疑ひはらすべし。」

・また曰く。「多くの人が、これまで聞きこんだことを信じて居る、まことに大事の處、聴聞といふは、今日ばかり今日ばかりと聞くのぢや。」

・障りにならぬとある御目当の罪悪を苦にし邪魔にいたし、いらぬいらぬと仰せらるゝ有りがたい心をものにし、佛のまいらせて、助かりにかゝらうとするは逆公事である。助かりたい心をおこす故、助かるのでない。助けたいが行届いて助かるのぢや。


 一つ目の法語に「無耳人に聞く耳を御與(おあたえ)へぢや」とあります。
「無耳人」というの仏教の言葉ですが、親鸞聖人は御和讃の中で「浄土をうたがう衆生」を「無眼人・無耳人」と仰っています。


 浄土を疑うと聞いてもなかなか解りにくい事ですが、私たちは簡単に浄土も仏法も信じられるものではありませんし、たとえ信じていると強く思っていても自分勝手な信じ方、自分のご都合に合うような信じ方しか私たちはできません。ですので、仮に「浄土を信じる衆生」であると自分自身を思っていても、実はその中身は「浄土をうたがう衆生」であるという姿を教えてくださっています。

 親鸞聖人がお書きになられた『一念多念文意』には、
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくというふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくというふは、信心をあらはす御のりなり。
 とあります。「本願をききて疑ふこころなきを『聞』といふなり」というのは本願、つまり第十八願に誓われている「われをたのめ、必ずたすける」という仰せを、自分の都合に合わせて聞くのではなく、自分のはからいを交えず、その通りに聞く事を「聞」というのだと仰っています。
 また、そのように本願のおこころの通りに聞くということを「信心」だとも仰っています。これほどまでに親鸞聖人が「聞」という事に注意を払われたのは、本願に適った「聞」ということが、いかに大切な事であるかという事を知らせてくださることと同時に、私たちには本願のおこころをはからいなく聞く力がないという事でもありましょう。それは親鸞聖人だけではなく、先哲方が何度も指摘されるところでもあります。
 
 阿弥陀様は本願のおこころをはからいなく聞く力がない私だからこそ聞く耳を「御與へ(おあたえ)」してまで「必ず助ける」と示してくださっております。阿弥陀様の大悲心は私の自己都合を頼りにしなくても助かるように仕上げてくださっています。仏法を聴聞していても、自分流の聞き方しか出来ない私であると知らせ、そういうものだからお助けの全部を仕上げてくださって与えてくださりました。それがナンマンダブツの名号なのであります。

 「ナンマンダブツ」の御名を聞くとき、摂取不捨のお助けにあずかってるのであります。それを「耳に聞くのが直(ただち)に御法の宝を我身に御與へなり」と香樹院師は示されています。

『求法用心集』は念佛寺HPにも掲載してありますので、是非お味わいください。


ナンマンダブツ


次回は12日です。





2018年6月18日月曜日

本日(6月18日) 学習会についてのお知らせ


 今朝、大阪北部で強い地震がありました。
被害に遭われた方も多数おられるようです。


 阪神間はJRや阪急などが運休しており、公共交通機関が混乱しております。
また、余震の影響を考えて本日の学習会は急遽中止とさせていただきます。


ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。


念佛寺

2018年6月4日月曜日

2日念佛座談会を終えて

6月になり暑さが増してきましたね。

 2日はまだ関西は梅雨入りをしていませんが、地域によっては梅雨入りしてるようですね。
梅雨と言えば紫陽花が思い浮かびます。
 念佛寺にも紫陽花がありその紫陽花に纏わる住職の逸話はなかなか面白いのですが例年記事にしているので今回は致しません。

 その念佛寺の紫陽花が今年は全く花芽を出さず一輪も花をつけませんでした。
紫陽花は花の終わった後に花から下3節目で剪定すると翌年も花芽が付きやすいということでそのようにしていたのですが、今年は花芽をつける事なく終わりそうですこし寂しい気持ちです。しかし、そのようなことがあったからこそ今年はバッサリと剪定をする気持ちにさせてもらえたので半面楽しみでもあります。

さて、今回は『安心小話』より


〇ある人明信老人に、雑行すてて一心に弥陀をたのむ斗(ばか)りにて候か。師いわく。いやそうではない。雑行すてて弥陀をたのむのじゃ。


〇伊勢畳屋籐七いわく。凡夫心の兎の毛の先でついたほども間にあわぬことを、はっきり知らせていただくことは甚だ難いことじゃ。


 今回の語録は文章の筋が少し見えにくいのでそのあたりの難しさがあったようにおもいます。
一つ目の語録は、ある人が明信老人という方に「雑行をすてて一心に阿弥陀様のお助けにおまかせするだけでよいのでしょうか?」と尋ねた事に対して、明信老人がその返答に「いや、そうではありません、雑行をすてて阿弥陀様のお助けにおまかせするのです」と仰ったということです。

 読み方は何となくわかったとしても、その味わいは簡単なものではありません。もちろん「解答」などというもがあるわけではありませんが、何となく「こういう味わいかな?」と言うものもあるわけです。それを各々話してみるというところに座談会の良いところがあるわけです。
 今回もご参加の方に沢山話していただきました。最終的には住職が「こういう味わいはいかがでしょうか」という程度を話して次の話題へと移ります。

今回も初めて参加される方がおられました。
難しくもあり、味わい深いものもあります。
難しくお考えにならないで、ご参加していただければと思っております。

ナンマンダブツ

次回は12日です。
6日は輪読会です。


今年は咲く気配がありません




2018年5月17日木曜日

12日 念佛座談会

 今回も前回同様に法然聖人の御法語を親鸞聖人が晩年に纏められた『西方指南鈔』と『安心小話』より、


〇しかるを阿弥陀仏は、「乃至十念若不生者不取正覚」とちかひて、この願成就せしむがために、兆載永劫の修行をおくりて。今已に成仏したまへり。
 この大願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて決定往生おもするなり。
 かるがゆへに如来の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南無阿弥陀仏と唱えてむ上には、決定往生とおもひをなすべきなり。

〇江州吉右衛門の婆の許へ近村の某女尋ね行きたりしが、婆いわく御前様は何処の人なりや。女いわく、某村のものなりと。婆いわく、御前様も御淨土へ参らしてもらう人じゃねい。女いわく、そこが聞こえぬので今日は参りました。婆いわく、それでも御念仏を申さんすもの。

 
 西方指南鈔に関しては前回ご紹介いたしました。
親鸞聖人が晩年になられてもなお、法然聖人の御法語に心をかけていたことがわかります。法然聖人は自力だから親鸞聖人とは違うと仰る方もおられると聞いて居りますが、そのあたりは丁寧に当たっていかなければならないかとおもいます。さて、今回の法然聖人のお言葉に

「乃至十念若不生者不取正覚」とちかひて、この願成就せしむがために、兆載永劫の修行をおくりて

 とあります。法然聖人は法蔵菩薩の修行の目的を「乃至十念若不生者不取正覚」の願いを成就するためだと仰ります。さらにはこの願があるから諸仏の名号よりも勝れていると仰っています。実は「仏の名号」というのは多くの経典に見る事が出来ます。 教行信証(行巻)にも「諸仏はみな、徳を名に施す」(大経義疏 法位)とありますので、仏の名には修行の徳が具わっていると理解されているようです。勿論、阿弥陀仏の御名にも諸仏の名と同様に諸々の善本徳本が施されていますが、それとは別に「乃至十念若不生者不取正覚 (名を称えるばかりで浄土に生れさせる)」と誓われています。これは他の諸仏にはない阿弥陀仏独自の誓願であります。

 その「名を称えるばかりで浄土に生れさせたい」という阿弥陀仏の願いは、私たちに厳しい修行を少しも課すことなく、煩悩の〝そのまま″でナンマンダブツと称えるままで助けるという大慈悲が南無阿弥陀仏の名号となって具体化し、私に届きはたらいているのです。私たちはナンマンダブツと一声称えている上に阿弥陀仏の誓を聞き、一声の念佛の上に念佛往生の誓いを聞き、ナンマンダブツの一声を聞かせていただくばかりで阿弥陀仏の浄土に生れると受け取るばかりであります。
 
 ナンマンダブツ


伊丹市の荒巻バラ園












2018年5月8日火曜日

5月2日 念佛座談会
 

 5月のこの時期は毎年藤の花を見に行きたくなるのですが、
藤の花の開花時期とゴールデンウィークが重なることから藤の名所はどうしても混雑するので、今回も藤の名所行きは断念。しかし、名所ではない場所で樹齢300年といわれる藤の花を見てまいりました。300年前には既にそこにあった藤を“今”見るというのは不思議な事ですね。

 さて、今回の学習会は『松並松五郎語録』と『西方指南抄』より。


〇阿弥陀さんから信心もらうのでなく、阿弥陀さんをもらう。阿弥陀さんから念仏もらうと、思っていたが、念仏が阿弥陀さんであった。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  

〇仏様が、私になりきって下されました。

〇法蔵菩薩の五劫の思惟は衆生の意念を本とせば、識揚神飛(しきようしんぴ)のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立てたまへり。この名号は、いかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば別に因位の本願を縁ぜむとおもふべきにあらず。

〇(中略)たとへばたきもののにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく、本願薫力のたきものの匂は、名号の衣に薫じ、またこの名号の衣を一度南無阿弥陀仏とひききてむ(称えて、こんな者をと受け取った)ものは、名号の衣の匂、身に薫ずるがゆへに、決定往生すべき人なり。大願業力の匂と云は、往生の匂なり。大願業力の往生の匂、名号の衣よりつたわりて行者の身に薫ずと云道理によりて、『観経』には、『若念佛者、當知、此人是人中分陀利華』と説なり。


 『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』というのは真宗聖典にも収録をされていないのであまり馴染みがないかとおもいますが、これは源空聖人の法語・消息・行状など全28項の言行録を編纂したものです。
  親鸞自筆本は康元元年(1256)―正嘉元年(1257)の書写があり、類書に文永12年(1275)了慧編『黒谷上人語燈録』などもあります。西方指南抄には本書だけに収められた法語もあり、真宗高田派専修寺に親鸞自筆本と古写本(ともに国宝)があります。今回の法語の3つ目と4つ目は西方指南鈔からとなっています。

「たとへばたきもののにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく」

 とあります。たきもの(焚きもの:お香を焚く事))の匂いが着物に移り、その着物を着て入る人がお香の匂いのおかげでその人自身がいい匂いになるということですが、わかりやすい喩えですね。この喩えは本願力と名号とその名号を称える者との関係を表しています。
 つまり名号を称える者は阿弥陀様のご本願のおはたらきがいつのまにか、自分の意思に関わらず自然に身に染み着いてくるということでありましょう。法然聖人のこのお言葉を親鸞聖人は書き留めておられ、しかも西方指南抄は親鸞聖人85才の時に完成させた言行録であるということですから晩年の親鸞聖人にとってもこれらの書簡やご法語に重要な意味があったのだろうと思われます。
 今回の法語の3つ目に

「この名号は、いかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。」

 とあります。
 南無阿弥陀仏のお名号を称えるにあたりどのような心持で称えればよいのか、ということについて「乱想の中にも」というお示しをされています。称える者が何の理解もない中で「南無阿弥陀仏を称えよ」といわれるとその称え方や心持などに疑問を持つということは自然なことです。そこで法然聖人はお念仏のお謂れなどを思わずとも、乱れた心の内容であっても称えるべし、と仰るのですが、これもまた疑問の生れそうなお示しです。もしかしたら法然聖人に出遇われた頃の親鸞聖人もこの疑問を持ち、くぐり抜けてこられたのかもしれません。
 そして親鸞聖人が晩年になってもなお法然聖人のこのお示しをが法蔵菩薩の五劫思惟の願に適っていると、親鸞聖人ご自身が人生の中で確かめられたからこそこの言葉を西方指南鈔に残されたのではないかとおもいます。

 お念仏は私の心持を必要とはしません。私がどのような心で称えようとも、どのような場所で称えようとも、お念仏が変わるという事はありません。善い心でお内仏の前に正座をし姿勢正しく声高にお念仏しようとも、病気で寝込んでいる中でお念仏しようとも、ハイキングをしながら出るお念仏も、雑踏の中で出るお念仏も、出てくるお念仏に何ら違いはありません。
 それは法蔵菩薩がどんなに散り乱れた心を持っている煩悩具足の凡夫であっても、大変な修行を重ね皆から尊敬される聖者であっても、その口から出てくる一声のナムアミダブツは平等の慈悲に催されて、あまねく一切衆生を摂せんがために称名念佛をもって凡夫の上にあらわれる如来の大行であるわけです。歎異抄には「ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし」と法然聖人のお言葉が伝えられています。そのような心持も必要とせず、ただ念佛申すばかりでたすけるとの大悲のお心を聞かせて頂くばかりであります。

ナンマンダブツ