2018年12月1日土曜日

念佛寺報恩講のご案内

念佛寺報恩講のご案内

 報恩講とは宗祖親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要で、念佛寺に於きましては毎年12月22日に勤めております。
  親鸞聖人のいただかれた念佛往生の教えに遇い、自らの帰依処を教えていただいた御恩に報謝し、いよいよ聞思深めていく場でもあります。
 真宗門徒にとりまして大切な法要です。どうぞお参りください。
御講師は昨年に引き続きまして瓜生崇先生にお越しいただく事となっております。
 日時 : 12月22日 (土)
 時間 : 午前10時~  お勤め 後 住職法話
            
            休憩
    
               午後 2時~   お勤め 後 御講師法話

 持ち物: お念珠 (お勤めの本はこちらで用意しております)
 諸事項:  駐車場はありませんのでなるべく公共交通機関をご利用になられるか周辺パーキング
       を利用ください。 
  
 念佛寺報恩講 御講師 案内
 東近江市 真宗大谷派玄照寺 瓜生崇先生

2018年11月6日火曜日

2日念佛座談会

 11月に入り少し寒くなりつつありますが、六甲山が紅葉に染まるのはまだまだ先のようです。
お知らせいたしましたが、2日の念佛座談会は今回と次回を以って終了となります。
今回は『称名念佛(しょうみょうねんぶつ)』で座談をいたしました。

 ある方がご聴聞をされていたときに、その時の講師の方に「称名念佛は名に称(かなう)ことで、音を出す事ではない」といわれたということで、その方が、「声に出す事ではないのですか?」と問い直したところ、「そんなことは(親鸞聖人の著作に)書いていない」と 言われたという事でした。
 親鸞聖人のお書きになられた『一念多念文意』には、

「称は御なをとなふるとなり、または称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどをさだむることなり」

 と仰っており、「御な」とは阿弥陀仏の名号をさすことから、第一義的には南無阿弥陀仏と称えるということになります。ここで言われている先生のご指摘された「かなう」は称の左訓に「かなふ はかる」とありますので、間違いではありません。

 ではやはり声を出して南無阿弥陀仏と称えればいいのだ、という事になりがちですが、そこに一つ問題があります。
 
 阿弥陀佛は私達に向けて「我が名を称えよ、必ず助ける」と仰っています。この一句は助からない者を必ず助けるという慈悲からの言葉であり、佛の願いでもあります。このように聞くと吾々はすぐに「称えたら助かるのですね」と持ち替えてしまい、「一生懸命大きな声で称えたら助かる」としてしまいます。こうなると、人間側の意思が働き、条件的な文言となってしまいます。それでは佛のお心を受け取ることができません。この辺りは微妙な所ですね。

 では、親鸞聖人がどのように領解されているかというと、南無阿弥陀仏は本願召喚の勅命であるといわれます。難しい言葉ですが、本願召喚の勅命というのは「直ちに来たれ、そのままなりを助ける」という喚び声です。本願召喚の勅命を聞いて称えるものならば浄土に生れることが決まるというのです。念佛を称えた回数や称えている時の心情などで浄土に生れる事が決まるのではなくて、本願召喚の勅命であるから浄土に生れる事が決定すると、そのようにご領解されています。

 また、「信心を得た」ということがありますが、それは本願召喚の勅命が聞こえたという事で、佛の喚び声が聞こえたという事です。では喚び声を聞くにはどうするかと申しますと自分で「南無阿弥陀仏」と称え聞く事です。非常に直接的で具体的に本願召喚の勅命を聞けるわけです。本願を信じれば念佛を称えなくてもよいと考えている方もいるようですが、それは本願を概念化し知識的な理解をしているということになりましょう。
 親鸞聖人が法然聖人より賜った言葉が歎異抄にありますが、そこに「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とあります。それは阿弥陀様の御心を聞くところに助かるということでありましょう。今回の『称名念佛』はわかるようでわからないところでもありますので、どうぞご聴聞の中で確かめて頂きたいとおもいます。

ナンマンダブツ

次回の念佛座談会は12日です。




2018年11月3日土曜日

お知らせ〈学習会の変更について〉
 
 現在、念佛寺では毎月5回法座を開いております。
2日と12日はお念仏に親しみ座談を行う『念佛座談会』ですが、
来年より住職の負担を考えて2日の念佛座談会は取りやめることとなりました。
 
 それに伴い、6日の『輪読会』を新たに『聞名の会』として講義・座談形式で行うことになりました。
念佛座談会自体は減らしますが、やはり座談し信心を確かめる時間は大切であろうということで名称・内容を変更することとなりました。
 
 2日の『念佛座談会』を楽しみにされていた方、或いは2日のみのご参加の方には非常に申し訳ない事ではありますが、来年1月よりその様にさせていただきます。

よろしくお願い申し上げます。

念佛寺

2018年10月22日月曜日

『真宗教学の諸問題』(土井紀明著)発売中
 今回紹介
 存知8月に響書房(こうるしょぼう)さんから電子書籍で住職著『真宗教学の諸問題』が発売されております。


 
 この本自体は同人誌『朋友』に載せていたものを製本化し、念佛寺でも2014年に出版しております。今回は電子書籍での出版でより手軽に読めるようになりました。内容に関しては多少難しいものでもありますが、一度手にしていただければ幸いでございます。製本化したものは念佛寺より購入できますので、お問合せください。

よろしくお願い申し上げます。
念佛寺


http://kourushobo.com/  
響流書房さんのHPです。多数の電子書籍が揃えられていますので、是非読んでみてください。

 



2018年10月14日日曜日

10月12日 念佛座談会
 
 今回は「疑心」という事から座談会がはじまりました。
「疑い」と言っても世間話で出てくる疑いではなく、仏法聴聞をする事によってあきらかとなってくる阿弥陀様の本願に対する疑惑ということです。
 真宗は信心正因と言われるように信心が要となります。この信心によって仏に成る道が開かれてくるわけですが、佛の教えを信じて疑いのない心を自分自身に起こすということは実は簡単な事ではありません。
 一方、「疑心」は私自身に備わっているもので、これは無くそうと思っていても簡単になくせるものではありません。私達は日常生活の中で様々な物事に対して疑心を抱くことがあります。ですので、「疑心」は非常に身近な事で分かり易いと思うかもしれませんが、親鸞聖人は「自力」(『一念多念文意』には「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」)ということも「疑心」であると考えられました。

 つまり自分の力を頼りとし、その力によって浄土に生れようとするのは、結局のところ本願を信じているのではなくて自分の考えや智慧才覚を信じているのだという事です。ですので、我が心で阿弥陀様の本願に向かうと「疑心」でしかありません。我が心で向うところは疑心であるということがはっきりしているという事は救いがはっきりしているという事でもあります。先師が


「疑い晴らして信ずるにあらず、晴らざるが凡夫の心なり」

 
 と仰いましたが、それが我が心なのでしょう。疑心の晴れない者を必ず助けるとの本願ですが、だからと言って「疑いがあるがそれで良い、そのままのあなたで良い」というところに落ち着くのではありません。
 この辺りはよく誤解されやすいところですが、本願を疑っていても良いとは阿弥陀様は仰りません。凡夫として疑うより他にない者を助けるいう大悲の御声が聞こえているかどうか、聞こえる事で自分の疑心には用がなくなります。

最後に三河のおそのさん(1777~1853)のことばを紹介しておきます。

「疑いよ ここききわけて いんでたもう そちがいるゆえ 信がえられぬ」

「疑いに ここをのけとは 無理なこと むねをはなれて 何処へいきましょ」

「疑いよ 是非いかぬなら そこの居よ そちにかまわず 信を取るべし」

「疑いは 何処に居るかと 問ふたれば かわりに出てくる 念仏の声」


ナンマンダブツ
次回の念佛座談会は11月2日です。
どうぞご聴聞ください。





2018年9月15日土曜日

12日 念佛座談会
 
 今回のテキストは『松並松五郎語録』より


・東漸寺様「略典の初めに〈万行円備の嘉号は障りを消し疑を除く〉とある。これをどう頂きなさるか」と。人々は聞きながら、念仏もせずに、疑い晴れよう疑い晴れようとしても、疑の晴れる薬を飲まないから、何時までたっても「疑」晴れぬ。


・仏様の邪魔をせぬ事とは、聞く事である。聞く事とは念仏申す事。仏様の御出入りのさまたげをせぬこと。 南無阿弥陀仏


 今回は参加者の質問に「他宗の人の中には浄土真宗の教えがどのようなものであるかという事を学んでいる人もいるが、浄土真宗の人はあまり他宗に目を向けていないようであるが、何故か」というものがありました。なかなか難しい質問ですが、まず浄土真宗には「聖道門」「浄土門」という言葉があります。「聖道門」とは自力の修行によってこの世でさとりを得る法門のことです。「浄土門」というのは聖道門に対して阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生し仏になる法門のことです。親鸞聖人はもともと聖道門の人でした。聖道門の修行は自分の煩悩をコントロールすることが求められます。
 例えば、財産欲や名誉欲、食欲などの五欲や怒りや貪りなどをコントロールするというのですが、これは簡単な事ではありません。むしろ私達の生き方はこれらを増長させながらでしか生きて行けないようになっているものです。親鸞聖人はご自身を「煩悩具足の凡夫」と言い表しました。自身は煩悩が消える事の無い身であるという自覚から、聖道門の法門に自分は向かないということで聖道門の仏教から離れていき、そして、法然聖人の下で念仏の教え、つまり「浄土門」の仏道に出遇われました。このような事がありました。
 
 さて、質問の内容に入りますが、浄土真宗を学ぶ人は先の親鸞聖人のあゆみを学ぶことになります。そうすると、聖道門の教えは凡夫の私には必要ない、出来ない、親鸞聖人のように浄土門の教えでしか私は助からないと考えるようになります。その結果、他宗の教え、つまり聖道門の教えを学ぶ前から「自分には無理だ」と決めつけて切り捨てていくようになっていきます。しかし、親鸞聖人のあゆみにはいつも「私においては」という立場を持っているということがあり、最初から決めつけて切り捨てていくというような事はありませんでした。
 親鸞聖人が聖道門の教えを離れたのは誰かに指示されたわけでもなく、聖人自身が「私においては」というところからの決断であり、浄土の法門に入られるのも「私においては」を抜きにして決断されたようなものではありませんでした。そこに後に学ぶ人との大きな違いがあるように思います。
 
 もう一つ大事な事ですが、聖道門の教えを切り捨てていくという事を簡単にしてしまいがちですが、実は聖道門によって煩悩の生活が知らされるということがあります。例えば「少欲知足:しょうよくちそく」という言葉がありますが、本来そのような生き方をしなければならないのでしょうが、私においては欲多く貪り多く瞋り腹立ちが絶えず、人に迷惑をかけてしか生きて行けずにいます。このような私の生き方を肯定的に捉えないのは少欲知足が聖道門にはあるからでしょう。ですので、聖道門は私には関係の無い事だと初めから決めかかるのではなく、聖道門の生き方が方便として大事な意味を与えてくれるものであるとおもいます。

ナンマンダブツ

今月22日は『念佛寺彼岸会』です。詳しくは電話かHPでご確認ください。
どうぞお参りしご聴聞してください。

念佛寺


2018年9月10日月曜日

秋 彼岸会のご案内

 大阪北地震から大雨や台風などの自然災害が多発しています。
北海道においては大地震により、現在、多くの方が困難な事情の下で生活をされております。

 私たちは様々な苦難を経験します。そして、その苦難の中から生まれ、約2500年の間、人類の光となって照らし続けてきた教えが仏教であります。
このお彼岸が阿弥陀様に出遇う機縁とならんことを願うものであります。

 今年の秋彼岸会も例年通りに執り行います。
台風のシーズンなので、直前にどのようになるかはわかりませんが、中止などの措置を取る時はHPなどで案内をいたしますのでご確認ください。

 念佛寺


日時: 9月22日(土)

時間: 午後2時~4時 


(2時よりお勤め、終了後休憩を挟み住職法話)

持ち物:お念珠 (お勤めの本は用意してあります。)


どなたでも参加できます。

駐車場はありません。車でお越しの場合は周辺駐車場をご利用ください。

質問等ありましたらHPよりメールか電話で問い合わせてください。
急な変更がある場合はブログで案内いたします。

よろしくお願いします。


念佛寺