2019年2月13日水曜日

3月6日の『聞名の会』の変更について

 毎月6日午後7時より『聞名の会』を開催しております。3月は門徒会の本山上山に住職が伴いますので、休会とさせていただきます。
休会分は3月8日午後7時よりとさせていただきます。よろしくお願いいたします。


聞名の会の変更

3月6日 午後7時~  →  3月8日 午後7時


どうぞお間違えなくお越しください。
4月につきましては4月6日の予定となっております。
よろしくお願いいたします。

念佛寺

2019年1月31日木曜日

寺報 4ヵ月分をHPにUPしました

 今日は久しぶりに一日中雨が降っておりました。この時期の雨は冷たく寒さを一層際立たせますね。インフルエンザなども流行っておるようなので、用心してください。

 さて、滞っていたHPの寺報掲載ですが、4ヵ月分 (2018年10月号~2019年1月号) を纏めてUPいたしました。いつもHPに掲載をする時期が遅れ気味で、今月号を読もうとしても数か月前の更新で止まってしまっているという事ばかりですが、楽しみにされている方も多いようなのでなんとか続けさせていただいている次第でございます。今年の寺報掲載も数ヵ月という遅れが生じるかと思いますが、是非ともよろしくお願い申し上げます。また、質問やご感想、等がございましたらメール等で受け付けております。
よろしくお願い申し上げます。

念佛寺

2019年1月18日金曜日

1月も中旬となりました
 
 阪神淡路大震災から24年目になります。テレビ番組や新聞では特集が組まれたり
阪神間の各地では追悼行事などが行われました。阪神間の小中学校では震災集会などがあり、
震災の記憶を後世に伝えつつ、今後起こるとされている地震や津波に対しての心構えなどを
話し合う機会が設けられました。

 ここ数年、そのような集会は震災直後に比べて半数以下に減少したという事です。
24年経てばその当時集会を運営していた方々も高齢になり、その維持が出来なくなってきているというのが大きな理由だそうですが、どうしても関心が薄れ風化していくという事もあるのだと思います。
 
 私達の関心は変化し続けますが、その多くは自身より起こる「欲」が関係しているものです。
その代表的なもので五欲(色・声・香・味・触 に執着して起こす欲望 又は 財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲 )というものがあります。
 TVのコマーシャルや新聞広告などを見ていますと五欲に関連しているものばかりだと分かりますが、裏を返せば五欲に訴求する事で商品などに対する関心を集める事が出来ると
わかっているということです。そういうものに常に触れる環境に身を置いているわけですから、震災当時には非常に関心を持っていた事でも今ではあまり関心を持てなくなってしまったという事もあるのでしょう。 松並松五郎さんは

「この世がようなったらあかん。もう仏法に離れる」と仰いました。

 人生が順境だと思う事が悪いということではありませんが、何をもって人生を順境と言っているのかを知らなければなりません。
仮に我欲で満たされている人生を順境とするならば、仏教の教えからすると大きな誤りであると言わざるを得ません。

 そして、そのような我欲に満たされている状態を順境だと言っている時には、大事な物事を疎かにしてしまったり、仏教の教えにも耳を貸さないものでもあります。
 お経には国王であった法蔵がその王位を捨て、1人の沙門となったとあります。国王というのは世俗の頂点でもあり世俗の欲を実現する地位にあります。しかし、その地位を自ら捨てたという事は我欲の実現に人生の満足は無いという事ではないでしょうか。
 
お経は真実のさとりの領域から私達をあるべき在り方を示し、呼び覚まし、導いてくださる言葉です。
 我欲煩悩の尽きる事の無い一切の衆生を必ず浄土に生れさせ、安楽なさしめると誓ってくださった言葉が「南無阿弥陀仏」です。
 
 親鸞聖人は阿弥陀様の願いをよくよく案じられて「親鸞一人がため」と仰りました。最後の一人を漏らさず救う為に念佛となって喚び続けているのは、誓願を建てる最初から助かる縁すらない凡夫一人一人に深い関心を寄せ続けてくださる阿弥陀様の御慈悲の顕現であるといえるのです。
 
ナンマンダブツ







 

2019年1月10日木曜日

 新年にあたり、謹んでご挨拶申し上げます

 大変遅くなりましたが、今年もよろしくお願い申し上げます。
今年はお伝えしていた通り、学習会の開催内容に一部変更をさせていただきました。
早速6日に行われた『聞名の会』は「正信偈」に学ぶと言うことで住職による法話があり、それを熱心に聴聞される参加者の姿が見受けられました。

 新年を迎えた事で私の心に何か新たな心境が生まれるように思いますが、そう簡単に変わるわけではありません。昨年と同様、迷いや不安、苦しみ悲しみを感じながら生きていかなくてはなりません。
「正信偈」はそのような私の姿を知らせ、私と同じような悩み苦しみを抱いて生き、そして如来の摂取に出遇われた先師方が受け伝えてくだされたお念佛をいただき、
皆が浄土に生まれるべきであると教えられてあります。

 お念佛のみ教えは一言「南無阿弥陀仏」です。時に喜び時に苦しむ支離滅裂で虚構の人生の中で親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰いました。そのお心を共に尋ね、いただきたいと願っております。
 
念佛寺


2018年12月27日木曜日

今年の報恩講も無事に終えました。

 毎年12月22日に念佛寺は報恩講を勤めます。
 午前中は住職による法話。午後はお勤め終了後、御講師による法話を頂きますが、今年は昨年に引き続き滋賀県から瓜生崇先生にお越しいただきました。
 瓜生崇先生ご自身の経験から「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。」という歎異抄のお言葉に触れられお話しされました。いつも熱くお話しをしていただいているので、その熱のこもったお話しを皆熱心に心を傾けていたとおもいます。因みに瓜生先生には今年も『真宗教学の諸問題』という本を響流書房さんより電子書籍で出版していただきました。パソコンやスマホで簡単に読むことが出来ますが内容は少し難しめです。関心のある方は是非読んでみてください。詳しくは念佛寺のHPにも案内をしております。よろしくお願いいたします。 

 さて、今年ももう少しで終わり正月を迎えようとしております。蓮如上人の言行録である『蓮如上人御一代記聞書』の一番初めには、


勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。


 とあります。勧修寺村の道徳という蓮如上人のお弟子さんが、お正月の挨拶に参上したところ、蓮如上人に「道徳念佛申さるべし」と仰いました。
 道徳が正月の挨拶を終えた後の出来事かもしれませんが、何にせよいつの時でも蓮如上人が私達に教えてくださるのはまず「念仏申すべし」であるということなのです。
ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

先日もお伝えいたしましたが、来年から念佛座談会日程等に一部変更があります。
詳しくはHPでご確認ください。
よろしくお願い申し上げます。
念佛寺











2018年12月1日土曜日

念佛寺報恩講のご案内

念佛寺報恩講のご案内

 報恩講とは宗祖親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要で、念佛寺に於きましては毎年12月22日に勤めております。
  親鸞聖人のいただかれた念佛往生の教えに遇い、自らの帰依処を教えていただいた御恩に報謝し、いよいよ聞思深めていく場でもあります。
 真宗門徒にとりまして大切な法要です。どうぞお参りください。
御講師は昨年に引き続きまして瓜生崇先生にお越しいただく事となっております。
 日時 : 12月22日 (土)
 時間 : 午前10時~  お勤め 後 住職法話
            
            休憩
    
               午後 2時~   お勤め 後 御講師法話

 持ち物: お念珠 (お勤めの本はこちらで用意しております)
 諸事項:  駐車場はありませんのでなるべく公共交通機関をご利用になられるか周辺パーキング
       を利用ください。 
  
 念佛寺報恩講 御講師 案内
 東近江市 真宗大谷派玄照寺 瓜生崇先生

2018年11月6日火曜日

2日念佛座談会

 11月に入り少し寒くなりつつありますが、六甲山が紅葉に染まるのはまだまだ先のようです。
お知らせいたしましたが、2日の念佛座談会は今回と次回を以って終了となります。
今回は『称名念佛(しょうみょうねんぶつ)』で座談をいたしました。

 ある方がご聴聞をされていたときに、その時の講師の方に「称名念佛は名に称(かなう)ことで、音を出す事ではない」といわれたということで、その方が、「声に出す事ではないのですか?」と問い直したところ、「そんなことは(親鸞聖人の著作に)書いていない」と 言われたという事でした。
 親鸞聖人のお書きになられた『一念多念文意』には、

「称は御なをとなふるとなり、または称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどをさだむることなり」

 と仰っており、「御な」とは阿弥陀仏の名号をさすことから、第一義的には南無阿弥陀仏と称えるということになります。ここで言われている先生のご指摘された「かなう」は称の左訓に「かなふ はかる」とありますので、間違いではありません。

 ではやはり声を出して南無阿弥陀仏と称えればいいのだ、という事になりがちですが、そこに一つ問題があります。
 
 阿弥陀佛は私達に向けて「我が名を称えよ、必ず助ける」と仰っています。この一句は助からない者を必ず助けるという慈悲からの言葉であり、佛の願いでもあります。このように聞くと吾々はすぐに「称えたら助かるのですね」と持ち替えてしまい、「一生懸命大きな声で称えたら助かる」としてしまいます。こうなると、人間側の意思が働き、条件的な文言となってしまいます。それでは佛のお心を受け取ることができません。この辺りは微妙な所ですね。

 では、親鸞聖人がどのように領解されているかというと、南無阿弥陀仏は本願召喚の勅命であるといわれます。難しい言葉ですが、本願召喚の勅命というのは「直ちに来たれ、そのままなりを助ける」という喚び声です。本願召喚の勅命を聞いて称えるものならば浄土に生れることが決まるというのです。念佛を称えた回数や称えている時の心情などで浄土に生れる事が決まるのではなくて、本願召喚の勅命であるから浄土に生れる事が決定すると、そのようにご領解されています。

 また、「信心を得た」ということがありますが、それは本願召喚の勅命が聞こえたという事で、佛の喚び声が聞こえたという事です。では喚び声を聞くにはどうするかと申しますと自分で「南無阿弥陀仏」と称え聞く事です。非常に直接的で具体的に本願召喚の勅命を聞けるわけです。本願を信じれば念佛を称えなくてもよいと考えている方もいるようですが、それは本願を概念化し知識的な理解をしているということになりましょう。
 親鸞聖人が法然聖人より賜った言葉が歎異抄にありますが、そこに「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とあります。それは阿弥陀様の御心を聞くところに助かるということでありましょう。今回の『称名念佛』はわかるようでわからないところでもありますので、どうぞご聴聞の中で確かめて頂きたいとおもいます。

ナンマンダブツ

次回の念佛座談会は12日です。