2018年6月18日月曜日

本日(6月18日) 学習会についてのお知らせ


 今朝、大阪北部で強い地震がありました。
被害に遭われた方も多数おられるようです。


 阪神間はJRや阪急などが運休しており、公共交通機関が混乱しております。
また、余震の影響を考えて本日の学習会は急遽中止とさせていただきます。


ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。


念佛寺

2018年6月4日月曜日

2日念佛座談会を終えて

6月になり暑さが増してきましたね。

 2日はまだ関西は梅雨入りをしていませんが、地域によっては梅雨入りしてるようですね。
梅雨と言えば紫陽花が思い浮かびます。
 念佛寺にも紫陽花がありその紫陽花に纏わる住職の逸話はなかなか面白いのですが例年記事にしているので今回は致しません。

 その念佛寺の紫陽花が今年は全く花芽を出さず一輪も花をつけませんでした。
紫陽花は花の終わった後に花から下3節目で剪定すると翌年も花芽が付きやすいということでそのようにしていたのですが、今年は花芽をつける事なく終わりそうですこし寂しい気持ちです。しかし、そのようなことがあったからこそ今年はバッサリと剪定をする気持ちにさせてもらえたので半面楽しみでもあります。

さて、今回は『安心小話』より


〇ある人明信老人に、雑行すてて一心に弥陀をたのむ斗(ばか)りにて候か。師いわく。いやそうではない。雑行すてて弥陀をたのむのじゃ。


〇伊勢畳屋籐七いわく。凡夫心の兎の毛の先でついたほども間にあわぬことを、はっきり知らせていただくことは甚だ難いことじゃ。


 今回の語録は文章の筋が少し見えにくいのでそのあたりの難しさがあったようにおもいます。
一つ目の語録は、ある人が明信老人という方に「雑行をすてて一心に阿弥陀様のお助けにおまかせするだけでよいのでしょうか?」と尋ねた事に対して、明信老人がその返答に「いや、そうではありません、雑行をすてて阿弥陀様のお助けにおまかせするのです」と仰ったということです。

 読み方は何となくわかったとしても、その味わいは簡単なものではありません。もちろん「解答」などというもがあるわけではありませんが、何となく「こういう味わいかな?」と言うものもあるわけです。それを各々話してみるというところに座談会の良いところがあるわけです。
 今回もご参加の方に沢山話していただきました。最終的には住職が「こういう味わいはいかがでしょうか」という程度を話して次の話題へと移ります。

今回も初めて参加される方がおられました。
難しくもあり、味わい深いものもあります。
難しくお考えにならないで、ご参加していただければと思っております。

ナンマンダブツ

次回は12日です。
6日は輪読会です。


今年は咲く気配がありません




2018年5月17日木曜日

12日 念佛座談会

 今回も前回同様に法然聖人の御法語を親鸞聖人が晩年に纏められた『西方指南鈔』と『安心小話』より、


〇しかるを阿弥陀仏は、「乃至十念若不生者不取正覚」とちかひて、この願成就せしむがために、兆載永劫の修行をおくりて。今已に成仏したまへり。
 この大願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて決定往生おもするなり。
 かるがゆへに如来の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南無阿弥陀仏と唱えてむ上には、決定往生とおもひをなすべきなり。

〇江州吉右衛門の婆の許へ近村の某女尋ね行きたりしが、婆いわく御前様は何処の人なりや。女いわく、某村のものなりと。婆いわく、御前様も御淨土へ参らしてもらう人じゃねい。女いわく、そこが聞こえぬので今日は参りました。婆いわく、それでも御念仏を申さんすもの。

 
 西方指南鈔に関しては前回ご紹介いたしました。
親鸞聖人が晩年になられてもなお、法然聖人の御法語に心をかけていたことがわかります。法然聖人は自力だから親鸞聖人とは違うと仰る方もおられると聞いて居りますが、そのあたりは丁寧に当たっていかなければならないかとおもいます。さて、今回の法然聖人のお言葉に

「乃至十念若不生者不取正覚」とちかひて、この願成就せしむがために、兆載永劫の修行をおくりて

 とあります。法然聖人は法蔵菩薩の修行の目的を「乃至十念若不生者不取正覚」の願いを成就するためだと仰ります。さらにはこの願があるから諸仏の名号よりも勝れていると仰っています。実は「仏の名号」というのは多くの経典に見る事が出来ます。 教行信証(行巻)にも「諸仏はみな、徳を名に施す」(大経義疏 法位)とありますので、仏の名には修行の徳が具わっていると理解されているようです。勿論、阿弥陀仏の御名にも諸仏の名と同様に諸々の善本徳本が施されていますが、それとは別に「乃至十念若不生者不取正覚 (名を称えるばかりで浄土に生れさせる)」と誓われています。これは他の諸仏にはない阿弥陀仏独自の誓願であります。

 その「名を称えるばかりで浄土に生れさせたい」という阿弥陀仏の願いは、私たちに厳しい修行を少しも課すことなく、煩悩の〝そのまま″でナンマンダブツと称えるままで助けるという大慈悲が南無阿弥陀仏の名号となって具体化し、私に届きはたらいているのです。私たちはナンマンダブツと一声称えている上に阿弥陀仏の誓を聞き、一声の念佛の上に念佛往生の誓いを聞き、ナンマンダブツの一声を聞かせていただくばかりで阿弥陀仏の浄土に生れると受け取るばかりであります。
 
 ナンマンダブツ


伊丹市の荒巻バラ園












2018年5月8日火曜日

5月2日 念佛座談会
 

 5月のこの時期は毎年藤の花を見に行きたくなるのですが、
藤の花の開花時期とゴールデンウィークが重なることから藤の名所はどうしても混雑するので、今回も藤の名所行きは断念。しかし、名所ではない場所で樹齢300年といわれる藤の花を見てまいりました。300年前には既にそこにあった藤を“今”見るというのは不思議な事ですね。

 さて、今回の学習会は『松並松五郎語録』と『西方指南抄』より。


〇阿弥陀さんから信心もらうのでなく、阿弥陀さんをもらう。阿弥陀さんから念仏もらうと、思っていたが、念仏が阿弥陀さんであった。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  

〇仏様が、私になりきって下されました。

〇法蔵菩薩の五劫の思惟は衆生の意念を本とせば、識揚神飛(しきようしんぴ)のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立てたまへり。この名号は、いかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば別に因位の本願を縁ぜむとおもふべきにあらず。

〇(中略)たとへばたきもののにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく、本願薫力のたきものの匂は、名号の衣に薫じ、またこの名号の衣を一度南無阿弥陀仏とひききてむ(称えて、こんな者をと受け取った)ものは、名号の衣の匂、身に薫ずるがゆへに、決定往生すべき人なり。大願業力の匂と云は、往生の匂なり。大願業力の往生の匂、名号の衣よりつたわりて行者の身に薫ずと云道理によりて、『観経』には、『若念佛者、當知、此人是人中分陀利華』と説なり。


 『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』というのは真宗聖典にも収録をされていないのであまり馴染みがないかとおもいますが、これは源空聖人の法語・消息・行状など全28項の言行録を編纂したものです。
  親鸞自筆本は康元元年(1256)―正嘉元年(1257)の書写があり、類書に文永12年(1275)了慧編『黒谷上人語燈録』などもあります。西方指南抄には本書だけに収められた法語もあり、真宗高田派専修寺に親鸞自筆本と古写本(ともに国宝)があります。今回の法語の3つ目と4つ目は西方指南鈔からとなっています。

「たとへばたきもののにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく」

 とあります。たきもの(焚きもの:お香を焚く事))の匂いが着物に移り、その着物を着て入る人がお香の匂いのおかげでその人自身がいい匂いになるということですが、わかりやすい喩えですね。この喩えは本願力と名号とその名号を称える者との関係を表しています。
 つまり名号を称える者は阿弥陀様のご本願のおはたらきがいつのまにか、自分の意思に関わらず自然に身に染み着いてくるということでありましょう。法然聖人のこのお言葉を親鸞聖人は書き留めておられ、しかも西方指南抄は親鸞聖人85才の時に完成させた言行録であるということですから晩年の親鸞聖人にとってもこれらの書簡やご法語に重要な意味があったのだろうと思われます。
 今回の法語の3つ目に

「この名号は、いかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。」

 とあります。
 南無阿弥陀仏のお名号を称えるにあたりどのような心持で称えればよいのか、ということについて「乱想の中にも」というお示しをされています。称える者が何の理解もない中で「南無阿弥陀仏を称えよ」といわれるとその称え方や心持などに疑問を持つということは自然なことです。そこで法然聖人はお念仏のお謂れなどを思わずとも、乱れた心の内容であっても称えるべし、と仰るのですが、これもまた疑問の生れそうなお示しです。もしかしたら法然聖人に出遇われた頃の親鸞聖人もこの疑問を持ち、くぐり抜けてこられたのかもしれません。
 そして親鸞聖人が晩年になってもなお法然聖人のこのお示しをが法蔵菩薩の五劫思惟の願に適っていると、親鸞聖人ご自身が人生の中で確かめられたからこそこの言葉を西方指南鈔に残されたのではないかとおもいます。

 お念仏は私の心持を必要とはしません。私がどのような心で称えようとも、どのような場所で称えようとも、お念仏が変わるという事はありません。善い心でお内仏の前に正座をし姿勢正しく声高にお念仏しようとも、病気で寝込んでいる中でお念仏しようとも、ハイキングをしながら出るお念仏も、雑踏の中で出るお念仏も、出てくるお念仏に何ら違いはありません。
 それは法蔵菩薩がどんなに散り乱れた心を持っている煩悩具足の凡夫であっても、大変な修行を重ね皆から尊敬される聖者であっても、その口から出てくる一声のナムアミダブツは平等の慈悲に催されて、あまねく一切衆生を摂せんがために称名念佛をもって凡夫の上にあらわれる如来の大行であるわけです。歎異抄には「ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし」と法然聖人のお言葉が伝えられています。そのような心持も必要とせず、ただ念佛申すばかりでたすけるとの大悲のお心を聞かせて頂くばかりであります。

ナンマンダブツ 










 
 

2018年4月25日水曜日

念佛寺春永代経を終えました。

『念佛寺 春永代経』をお勤めいたしました。

 バタバタいたしましたが何とか最後まで滞りなく終えることが出来ました。
 今回の御講師はHPでご案内いたしたとおり西川和榮先生にお越しいただきご法話をたまわり、金沢弁が諸所に出てきましたが解説していただきながらのご法話で新鮮な心地でお聞かせいただきました。

「すべては阿弥陀様の業(わざ)です」と力強くお話しされておりました。

 来月は通常通り2日の念佛座談会を開催いたします。
どうぞご縁の方はご聴聞ください。
よろしくお願い申し上げます。

ナンマンダブツ

念佛寺


躑躅がちょうど満開でした

椿は終わりですね


西川和榮先生



 

2018年4月14日土曜日

寺報(お寺の新聞)をupしました。
 
 2018年のお寺の新聞を1月分から3月分まで載せました。

 紙ベースでは毎月きっちり配布しているのですが、こちらはいつも遅くなっております。
 ご感想などがございましたらメールにてお待ちしております。(もちろん電話も受け付けております)。

よろしくお願い申し上げます。


   念佛寺

2018年4月4日水曜日

4月2日 念佛座談会
 
今年の桜は開花が早かった影響でしょうか、例年よりも早く散りそうですね。
 
 今年は珍しく大阪城に花見に行って参りました(例年はお花見をしません)。多くの観光客でに賑わっていましたが、外国の方が桜の下で宴会を楽しそうにしているのは目を引きました。帰りには大阪城公園内にある『蓮如上人袈裟懸けの松跡』を横目に森ノ宮駅から甲子園口駅まで戻ってきました。

 さて本日は『松並松五郎念佛語録』から


○火事と自ら気付いて逃げ出す人もあり。火事と知らされて、逃げ出す人もある。火事だと呼ばれても、火の付いた家に気付かず、寝ている赤子もいる。平気で寝ている赤子を、抱きかかえて逃げ出すよりほかには助かる道はない。吾々は何と云われても火の付いた世界、火宅無常の世界と聞かされても、それを本当に気付かない。平気で暮らしているこの私に、阿弥陀さんが私にとび込んで来て下され、私を抱きかかえて下さる、其の御姿が、今現にこの口に聞こえてくださる。 南無阿弥陀仏


○三百六十五枚敷きの部屋に住んでいて、障子一枚も入れてない部屋ですき間風が寒いと言えばおかしいこと。障子・ふすまが入れてあってこそ、すき間風です。念仏懈怠とは念仏称えてござるお方のこと。称えさされているだけのこと。


○南無阿弥陀仏は真理中の真理。五劫の御思案、永劫の修行のあかつきに、出来上がった、成就されたものです。智慧の頂上、御慈悲の頂上である。ただ、ひたすらに聞くべきもの、頂くもの、従うべきもの、受けるもの。聞くとは用いること、随うべきものなり。


 今回は難しいですね。

 一つ目は味わいやすいように思いますが、最後の「其の御姿が、今現にこの口に聞こえてくださる。南無阿弥陀仏」がなかなかいただき難いのではないでしょうか。私たちの人生は常に脅かされています。それは火宅(煩悩に満ちた娑婆世界を燃え盛る家に例えた言葉)に居ながらもその状況にまったく気がつかず、いよいよ危なくなって初めて我が事として受け止める事ができます。
 
 しかし、気がついた時には既に身も心も焦がしているのもので、「あのとき気を付けておれば」と後悔して次は気をつけようとしますが、なかなか徹底できないものです。火事に気をつけれるものであれば火事は起こらないであろうし、私が罪悪の身であるという事を徹底できるのであれば、良い事をし悪い事をしないような生き方も可能でありましょう。ですが、火事だと呼ばれても気づかずいつまでも寝ている赤子のような私たちではないでしょうか。

 そのどうにもならない私を助けると阿弥陀様は仰るのですが、その姿が口から”聞こえる南無阿弥陀仏だと教えられます。一声のナンマンダブツは阿弥陀様の永劫の修行の末に成就なされた慈悲と智慧の頂上です。その一声をただ聞くばかり従うばかり受け取るばかりであると教えられているのです。

ナンマンダブツ ナンマンダブツ

次回の念佛座談会は12日です。










念佛寺永代経のご案内


先月ご案内いたしましたが、再度案内をさせていただきます。

日時: 4月22日(日曜日)

時間: 午前10時 お勤め お勤め終了後住職法話
           
             休憩 
 
             午後2時 お勤め  お勤め終了後御講師法話


持ち物: お念珠  お勤めの本(お寺にも用意してあります)



御講師案内

西川 和榮 さん

 大阪・堺市の主婦で歌人の西川和栄さんにお話頂きます。西川さんは、昭和八年のお生まれ。子どもの頃から金沢で、仏法の信心が深い人々に囲まれて育ち、子ども心に大人が語る仏様の世界の不思議さに疑問と同時に感銘を受けて、その後の生涯を子どもの頃抱いた仏の世界、人間の世界に対する疑問の解決に向かって精進努力を続けてきた方です。(宗教の時間より)