2019年9月9日月曜日

HP更新のお知らせ
 
 8月も終わり9月に入ってしばらく経ちますが、あまり秋の気配を感じませんね。昨晩から関東地方は台風で大荒れの様子です。昨年関西を襲った台風21号では念佛寺も2日半程停電しました。今回の関東を襲った台風も非常に大きな勢力でしたから、多くの被害が出ているようですね。最近の停電では、お風呂を沸かそうにも通電していなければ沸きませんし、トイレ洗浄などを電気制御しているものは作動しません。勿論エアコンも使用できませんので、生活するのが困難なことだとおもいます。早く復旧することを願っております。

 さて、長らく更新しておりませんでしたが、HP『お寺の新聞』を更新いたしました。今月は12日念佛座談会、18日真宗入門講座、22日秋彼岸会があります。お待ちしております。

念佛寺


2019年7月28日日曜日

8月の予定

 本格的に暑くなってまいりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
8月の念佛寺の予定をお知らせいたします。


6日   聞名の会   午後7時~9時 

10日 盂蘭盆会   午後2時~4時

となっております。
12日念佛座談会 ・18日真宗入門講座 ・22日真宗同朋の会 は休会ですのでお間違いのないようよろしくお願い申し上げます。

念佛寺

詳しくは 念佛寺HPまで http://nenbutsuji.info/

2019年7月27日土曜日

念仏座談会で


 先日、念仏座談会を行いました。今回の念仏座談会では住職の法話後、ご参加の方から、

「光に遇う者は三垢が消滅して、身意柔軟なり」とありますが、これは現世での事でしょうか、また、三垢が消滅するから浄土に生れるのでしょうか

 という質問がありました。

 三垢というのは三毒と同じですが代表的な3つの煩悩の事で、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚癡(ぐち)という衆生をそこなう代表的な煩悩です。

 「貪欲」というのは「むさぼる」ということですが、自分の心に適う(かなう)ものに愛着し求めるこころです。「瞋恚」は憎しみ怒ることということです。
これは仏道修行の上で最大の障害となる心で、三毒の中では一番重いといわれています。 最後に「愚癡」ですが、人間にある根本的な無知で真実の道理に対して
暗いということです。仏教ではこの無明煩悩こそが人間にとっての根本の問題であるといっています。この三垢、あるいは三毒というのは、私たちを苦しめている原因でもあります。

「貪欲」は”とんよく”と仏教では読みますが、もしかすると”どんよく”と発音した方が馴染みがあるかもしれません。「”どんよく”に生きろ」とか「もっと”どんよく”になれ」
発破をかける時によく使っている言葉でもありますが、これは元来、仏教語であったのが一般化したことによって普段から使われる馴染みのある言葉となりました。

 貪欲は煩悩ですので、自分を煩わし悩ませるものであります。つまり仏道の修行においては邪魔なものであるということですが、”どんよく”と一般的に使われる場合には、意欲を持たせる時などに使われる場合があり、必ずしも悪い意味で使われているわけではありませんが、やはり”どんよく”であってもそれが増大することによって自分が苦しみ悩まなければならなくなるには変わりはありません。
 
 「瞋恚」(しんに)というのはあまり馴染みのない言葉ですが、これは「瞋り、怒り(どちらも”いかり”)」ということです。
「怒る(おこる)」ということでもありますが、私たちは縁に触れさえすればすぐに瞋りがこみ上げてきます。それは、親しい人であろうが他人であろうが自分にとって不都合なことが起こると瞋りが起こります。それによって時には暴力に頼ってでも相手を自分の都合に合わせようとすることもありますが、そのようなことが強く起こればそれだけ自己中心的な思考で物事を捉えているのだと知らされます。では、このような心は一体どこから起こるのか、存覚上人はこのことについて、


「貪欲を生じ瞋恚をおこすことも、そのみなもとをいえば、みな愚痴よりいでたり」


 と仰っておられます。正しい智慧で正しい道理を見ることが出来ず、道理に対してとても暗いのが愚癡という事ですが、その愚癡を元として貪欲と瞋恚が出てくるという事です。
 
 話を戻しまして、今回の質問である「光に遇う者は三垢が消滅して、身意柔軟なり」とありますが、「光」つまり「教え(智慧)」に遇う者は三垢が消滅するとされています。浄土に生れたということであれば三垢は消滅したという事でしょうが、現世においては光に遇っていたとしても三垢が消滅するということはありません。しかし、光に出遇うことによって少しずつ軽減されるという事はあるでしょう。親鸞聖人は『親鸞聖人御消息』に、


「まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。 」

(まずあなた方は、昔は弥陀のお誓いをも知らず阿弥陀仏のみ名を称える事もない身でありましたが、釈迦・弥陀のお導きに促されて、いま弥陀のお誓いを聞きはじめる身となっております。元々は真実の智慧に対して疑う愚かな心のような酒に酔い、貪りと怒りと愚痴の三つの毒を好んでいましたが、仏のお誓いを聞きはじめてからは、愚かで暗い迷いの酔いも少しずつ醒めて、三毒も少しずつ好まなくなり、阿弥陀仏の本願のお薬を常に好む身となっておられます。)


 と仰っています。光に遇えば三垢は少しづつ好まなくなり、本願の薬を好む身になっているということですので三垢が消滅するわけではありません。そこで、質問にある「三垢が消滅するから浄土に生れるのでしょうか」ということですが、ここに関していえば、三垢消滅の有無が阿弥陀仏の浄土に生れるということに関係するのではなく、阿弥陀仏のお誓いになられた本願に対する「疑心」が浄土に生れる妨げとなるので、三垢がある為に浄土に生れることができないという事ではないのです。


 
 



2019年6月26日水曜日

かくれ念仏

 今月20日、近隣の大谷派の若い僧侶数人と鹿児島で現地研修を行うために行ってまいりました。
主な目的は鹿児島の「かくれ念仏」についての学習です。
「かくれ念仏」というのは鹿児島県特有のものですが、「かくれ念仏」という名称は昭和31年発行の『日本歴史大辞典』に当時、鹿児島大学の桃園恵真氏が江戸時代における薩摩藩の一向宗禁制をわかりやすく言うために「かくれ念仏」と名付けられたようです。
 
 わたしは以前、鹿児島県の甑島というところに住んでおりました(昭和50年代前半)。住んでいたといっても私自身は4歳から小学校3年生までなのですが、「かくれ念仏」は知っていました。甑島の長浜(小学校の裏山の道)にも「かくれ念仏洞」があり、2度ほど訪れた記憶があります。しかし、どのようなことが行われていたを当時の私は知ることもありませんでしたが、「かくれ」という響きが非常に印象深く、甑島の長浜にあるかくれ念仏洞の雰囲気から何か暗いものを感じていたのは確かです。そういう意味で今回の研修旅行は非常に楽しみしていたのと、大きな学びがあることが期待されるものだと思っていました。前置きはこのくらいにして内容に移ります。

さて、かくれ念仏というのは

鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。

 弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。

 幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。

 このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。(西本願寺 鹿児島別院 一部抜粋)

 花尾かくれ念仏洞に向かう途中に広場があり、そこにある説明の看板です。
この広場は江戸時代にはおそらく民家があり、その裏手に花尾かくれ念仏洞につながる道が
あるのだと思います。そして、かくれ念仏洞でお念仏を称えていたとあります。かくれ念仏洞
でも、広いものでしたら洞に入りお勤めやお念仏を称えるということでも出来たでしょうが、
狭い念仏洞でしたら名号軸や仏具を隠しておき、信者がどこかに寄り合った時に取り出しお勤めを
していたというものもあります。
 先ほどの案内板から約300M山に入っていきます。
6月の朝、この時は鹿児島は梅雨入りをしていたので
多少の湿気がありました。本格的な夏になるとかなりの湿度
ではないかと思われます。当然足場はよくありません。コケ類もそうですが、湿気を
好む植物が多いので足元に気を付けなければなりません。

 今ではこのように鬱蒼としていますが、江戸時代などは燃料に薪を使う為に、もっと
山に手が入っていたと思われます。昔の人は落ちている枝も葉も集めているわけですから
もう少し見通しが良かったのかもしれません。そうすると、このようなところでも
昼間であれば人目に付くという事があるかもしれませんので、かくれ念仏洞に行こうとすると
夜になると思われます。この道を夜に、しかも草鞋で月明かりをたよりにしてとなると
簡単なことではありません。

左奥でお勤めできるようになっています。
 大きな岩が二つ寄りかかっており、その足元に洞の穴があります。
岩自体は6Mくらいはあったと思います。家の2階の天井よりも少し高いくらいではないでしょうか。
合掌しているようにも見えます。
洞の入り口外の左手に説明書きとローソク線香のセットが備え付けられています。

 というものです。江戸時代の300年間、薩摩藩の真宗門徒は苛烈な弾圧に耐えながら様々な形態で信仰の灯を消すことなく存続していました。
なかでも天保6年(1835)には徹底した弾圧があり、藩内をくまなく探索し嫌疑者に自白をさせるために激しい拷問を加えたとあります。

本願寺派の鹿児島別院には「涙石」というのがありますが、それはまさに拷問の際に使用されたものです。割り木の上に正座させられ、30~100㎏程の石を膝の上に置かれます。
それだけではなく、その石を拷問官が棒で叩くという事ですから想像を絶する苦痛を味わされたに違いありません。幾人もの信者が膝の上に置かれた石に涙したことでしょう。

涙石
本願寺派鹿児島別院にあります。これほどの石を割り木の上に正座をさせられて膝上に置かれるのですから
想像できません。痛くて涙したのか、悔しくて涙したのか、多くの人の涙を吸い取った石です。


 そもそも、どのような経緯があって禁制になったかというのは諸説あるようですが、薩摩藩の藩主である島津氏に危険視されていたのは間違いなさそうです。藩令として禁制が
打ち出されたのは島津義弘の時代ですが、それ以前より禁止令はあったようです。ですので、300年以上の長きにわたって禁制であったということは間違いないということです。

 そして解禁されたのは明治9年9月5日ですが、延べ14万人もの信者が弾圧されたということですが、いくら過酷な弾圧であっても権力や制度によって信心を奪う事が出来なかったということであります。

 権力に奪われることのなかった真宗門徒の信心は一体どのようなものであったのか、その手掛かりが上甑島(甑島は上甑島、中甑島、下甑島と分かれており、私たちがいたのは下甑島です)にあった「上甑島二十三座講」に残されている御消息によって伝えられております。

「一念発起平生業成の御信心のうえに、仏恩の称名相続御身となえられ候人々は、自然諸神諸仏かろしめ奉らじ、諸宗諸法そしらじまして、世間五倫五常をつつしみ候て、身には、せましきさをせじ、口には、いうまじきことをいはじ、意に、おもうまじき悪事をことさらにたくみに結ぶことあるまじき候。いよいよ天下の御禁制国守法法度をまもりて、内心に仏恩の称名念仏相続し給ふべき事肝要に候。これ即真宗繁昌の御徳に候」

 とあります。外心には藩の禁制に従っているように振舞っていても、内心では本願念仏の信心をいただき続けていたということでありましょう。
 幕藩体制というのがいつ終わるかもわからない中で、過酷な弾圧に耐えながら信心を深めていくということを何世代も続けてきたわけですからそのご苦労は計り知れません。

 「内心に仏恩の称名念仏相続し給ふべき事肝要に候」と薩摩の人は禁制の中でこの肝要なることを同行の中で確かめ合い、後に続く者に相続していく事を願い、そして今に本願念仏が伝えられているのだと感じ取ることができるものでした。(了)

真宗大谷派鹿児島別院発行のかくれ念仏資料です。
43ページですが、かなり纏まっており詳しく知ることができます。
別院にて500円で販売ております。









2019年5月16日木曜日

お知らせ

 現在、念佛寺HPで閲覧の出来ない記事があります。少しづつ復旧に向けた作業をしておりますので、今しばらくお待ちください。

ご迷惑をおかけしております。

念佛寺


2019年4月13日土曜日

4月22日 念佛寺永代経 のご案内

念佛寺永代経を来月22日に勤めます。
 
 真宗寺院の永代経は諸宗の永代供養とは異なる意味合いで勤まります。諸宗の場合は永代に渡り経典を読誦し故人の冥福を祈り供養するとされていますが、真宗寺院の場合は仏法を永く聴聞する機縁として執り行われます。
 
日時: 4月22日(月曜日)

時間: 午前10時 お勤め お勤め終了後住職法話
           
             休憩 
 
             午後2時 お勤め  お勤め終了後御講師法話


持ち物: お念珠  お勤めの本(お寺にも用意してあります)



御講師案内


岩佐 幾代 師  (飛騨市 浄永寺)

南無阿弥陀仏

2019年4月4日木曜日

「われは鬼」

「われは鬼、念佛は弥陀のあたえもの」
一蓮院師の法語を集めた『一蓮院談合録』に収められている言葉ですが、目を引くのはやはり「鬼』という言葉ではないでしょうか。

『一蓮院談合録』今井昇導師によって編纂されたものですが、もとは一蓮院秀存という江戸時代の大谷派講師の言葉で当時の御門徒とのやりとりが元になっているようです。その時代の語録等にはよく「鬼」という言葉が出てまいります。現代でも「鬼」という言葉は使われますが、その当時に比べ使い方としては多様化しているように思います。身近なものだと「鬼嫁」などもありますが、「仕事の鬼」など「鬼=並外れている」というニュアンスで若者の間でも使われているようなものもあります。
 しかし、大部分では以前と変わらず「怖い、恐ろしい」という意味合いのものが多いのではないでしょうか。語録にある「われは鬼」と言った場合の意味合いはまさに「怖いもの、恐ろしいもの」が自分の内にあるという事でしょう。親鸞聖人は

「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、腹立ち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、絶えず」

 と仰っています。自分自身は今までどれくらいいかり、はらだち、そねみ、ねたむ心を起こしてきた事でしょうか。思い当たるだけでも驚くほど起こしているのですが、では、その心を起こしたことに対して「申し訳なかった」と思う事はどれほどあるでしょうか。いかり、腹立ちによって相手を傷つけることがあったとしても、どこかで自分を正当化し守り続けるのが「無明煩悩われらが身にみちみちて」と自分の在り方を親鸞聖人が仰っています。

 私たちの本当の在り方は清廉潔白で善行を好む人間ではなく、いつでも自己中心的で我欲中心の生き方を棄てる事の出来ない煩悩そのものの凡夫の私自身を「鬼」というのでありましょう。また、今までの鬼のような「怖い、恐ろし」というものではなくて非常に「冷たい」という場合もあります。その本質も自己中心的なものですが他者に対して「無関心」という事もあるのではないかとおもうのです。「無関心」による他者への冷たさは、する側にしてみれば気がつきにくい性質のものかもしれません。要するに関心が無いわけですから、自分との関わりを保っている意識そのものがなく、罪悪感なども生まれにくいものです。

 しかし、される側にとってみれば非常に傷つくものです。よく取沙汰されているのは東北の震災に対する風化ですが、風化というのは関心を失う事によって起こるものです。無関心とまではいかないにしても関心が薄れる事によって地域的な孤立感、関係的な孤独感が生まれ、現地の方々を苦しめ続けています。

 「われは鬼」というのは自己中心的な生き方をする煩悩成就の私の事なのですが、その事実は知ろうが知るまいが反省しようがしまいが「鬼」であることに変わりありません。

 いくら申し訳なかったと反省したとしても、反省の結果などで「鬼」をやめることは出来ません。少しずつ良い方向に変わっていくという事も無い「仏」から一番遠くにいる存在であると阿弥陀仏の眼に映っているのです。ですが、その「仏」から一番遠い憐れな存在を助ける事が出来ないような「仏」ならば「仏」になりはしない、我が名を称えるままで「必ず浄土に生れさせる」とお誓いになれれたのが阿弥陀仏です。
  その阿弥陀仏に出遇うのは、西方に十万億の仏土を経た遙遠なところではなく、今この煩悩の生活の真っ只中に届きあたえられたナムアミダブツの一声であるといただくばかりであります。

ナンマンダブツ
近所の桜(去年のです)